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11月22日(土) (前号のつづき)
鶏鳴教会をすこし上った所に晩餐記念教会がある。此処はシオン山の頂上であり、現在はシ
オンの園と呼ばれている。此処は最後の晩餐の家でありペンテコステの二階座敷の家跡であ りダビデの墓のある所でもある。 ![]() ![]()
私たちはベツレヘムに向けて走った。途中クリスチャン経営という土産物店で40分ほどのシ
ョッピングタイムが与えられた。仲間たちの大半がここで大量の買い物をしたようだった。こわ れもの、大きさ、贈るひと、値段、種類などを考えての纏め買いは中々苦労する。私もおよそ の見当で何種類かの買い物をした。アラブ人の住居は全体として大きい。彼らは家族主義で 一軒の家に増築、建て増しを加えて親、子、孫、各家族が同居して仲良くやっているらしい。そ れに対してイスラエル(ユダヤ)人は核家族傾向があるという。とちらが祝福かここにも考えさ せられる一面が顔を覗かせている。ベツレヘムでの昼食である。大型バスなのでこのような郊 外に来ないと駐車が困難なのだという。広場では靴磨きのアラブ人が仕事をしている、手元の 鈴が合図で左足、右足を変えさせる。ベツレヘムは主の降誕の町、聖誕教会の広場はクリス マスの日、世界中からの人で大変な賑わいになるという。住民の殆どはアラブ人で彼らはイス ラエルに帰属していいた方が世界から観光客が来て懐がうるおうので、その方がよいと割り切 っているそうだ。だからアラブ人(回教徒)でも平気で主の絵はがき、十字架の飾りなどキリスト 教関係のものを作りまた売って商売しているのだと言う。彼らは宗教を前面に出さず商売を年 頭に行動するとの事だ。そこへいくと北部サマリヤの方は反イスラエルで、旅行にも一抹の危 険が伴うし客も余り行きたがらない、従って貧しいし反骨精神むきだしだという。広場でガイドを 受けている時、頭上の大きな鐘が正に割れんばかりの大きな音で"キーンコーンカーン"を繰り 返して耳を押さえる程だった。 ![]()
教会の入り口はかがんで入る程せまく小さいものだった。何でも遜って身を低くして入る為であ
るらしい。教会内部は反対に大きく今までの教会の中で最大のものと思えた。相変わらず絵画 はつきものの如く飾られ、聖誕の場所とされる所にはダビデの星を表す型がはめ込まれ周囲 にはランプと思える沢山の灯りが吊されている。こちらではクリスマスが3回あり西方教会(カト リック)が12月25日、東方教会(ギリシャ正教)が12月31日、アルメニヤ教会が1月6日にク リスマスを祝うそうだ。聖誕教会から程近い所に羊飼いの野またはボアズの野と言われる所が ある。大きな石の洞窟がありその中で何処のグループか集会をしていた。彼らにとって其処で の集会は感動的だろうが、占拠してしまうのは他の観光客に対してマナーが欠けると下川師も ちょっと苦い顔していた。結局私たちはその中に入れなかった。昔羊飼いたちはこのような洞 窟を暑さよけ、休憩所、また焚き火の穴として使ったのであろう。私たちがクリスマスの夜、野 宿をして羊の番をしていた羊飼いを連想するが、全くの野原でなくこのような洞窟であったので はないかと教えられた。 ![]() ![]() ![]()
エルサレムから10キロ程のベツレヘムを後にして再びバスはエルサレムに向かいゴードン
のそのの墓を訊ねた。此処にもアラブの子供たちの物売り、物乞い攻勢にあった。こんな時代 から彼らは生きる訓練を積むのであろうか。戸惑いとある種の嫌らしさを感ずるのも私の性格 だろうか。 ![]() ![]() ![]() ![]()
ゴルゴタには二つの説があり、一つは聖墳墓教会、いま一つはこの園の墓と呼ばれる此処
である。雰囲気的にはこの園の方がしっくりする。なるほど此処にも洞窟があり、その岩肌は 「されこうべ」に似ている。イギリス人ゴードンは此処こそ主の墓でありカルバリだと説を唱え た。主の墓と称する洞窟は奥行き10メートル間口2〜3メートルの深さ広さで中は入ってすぐ 右に主が納められたといわれる石の穴があり「主は此処にいまさず」と記された表示がある。 墓の前でガイドに聞き入る外人団があり涙を拭きつつの人の姿もあった。少し離れた所ではあ やはり外人観光客が讃美歌を歌っていた。私達は売店で買い物をして暗くなった道をホテルに と向かった。(この日の記つづく)
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