「同労者」第38号(2002年11月)             目次に戻る    表紙に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (31) 
D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳


 この人は理に適っているように見える
  人は不信仰によって――神の言葉を信じないことによって――いのちを失い、私たちは信
仰によって――神の言葉を信じることによって――再びいのちを取り戻します。言い換えるとア
ダムが倒れたところで私たちが起き上がるのです。彼は不信仰という石につまずき倒れまし
た。一方私たちは信じることによって引き上げられてまっすぐに立ちます。信じることが出来な
いという人々には御言葉を示してこの一つのことにまっすぐに向き合わせなさい。すなわちこの
六千年の間神は約束を破ったことがあっただろうか、ということにです。悪魔と人間はこのこと
を示そうと絶えず試み続けましたが、神がたとえ一つの約束でも破ったということを示すのに成
功したことはありません。もし神が語られた一言でも破られることがあったなら地獄で記念祭が
行われることでしょう。もし誰かが信じることが出来ないと言うのならこのことを力説すると良い
のです。
 今日私は自分自身の心よりも神を信じることが出来ます。「人の心は何よりも陰険で、それ
は直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレミヤ書17:9)私は自分自身よりもむしろ神
を信じることが出来ます。もしあなたがいのちの道を知りたいならイエス・キリストがあなた自身
の救い主であることを信じなさい。あらゆる教理や信条を切り離し、神の御子の心へまっすぐ
に行きなさい。もしあなたが無味乾燥な教理で養われて来たとするなら、そのような糧による成
長はあまり望めません。魂にとっての教理とは、肉体にとっての「食事に招待してくれた友の家
に通ずる道」のようなものです。正しい道をたどれば食事の場所へ着くことが出来ますが、通り
に佇んだままでは空腹は決して満たされません。教理で養われることは干からびた穀物殻を
食べて生きていこうとすることのようで、天よりのパンに与らない魂は依然として全く痩せ細っ
たままに違いありません。
 「どうしたら心が暖められるでしょう」と尋ねる人がいます。それは信じることによってです。神
を愛し仕える力は信じるまでは手に入りません。
 使徒ヨハネは言いました。「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそ
れにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。 神の御子を信
じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とする
のです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。 そのあかしとは、神が私た
ちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということで
す。 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」
(ヨハネT 5:9−12)



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