「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者な
のでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれ を顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をか ぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれまし た。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主 よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」(詩編 8:3〜9)
聖書は人間についてどのように述べているか以下の項目に従って考察してみました。
1.聖書の人間観
2.人間
2.1神の像(かたち)・・人間が神の像に似せて創造されたとはどういうことか
2.2人間の構成 ・・体、たましい(心)、霊
自我、人格、良心、などについて
3.人間の主権と責任 ・・人間の自由と罪について
今月は1.聖書の人間観について取り上げます。
1.聖書の人間観
今回の聖書研究の目的は"聖書の人間観"を明らかにすることです。
「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたに
よってさばかれるはずなのに、・・私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らない のですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。」(コリントT6:1〜4)
「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったので
す。・・
主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」(ヘ
ブル2:5、16)
「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのでは
ありませんか。」(ヘブル1:14)
"人間"こそが聖書の中心テーマなのであって、天使でも悪魔でも動植物でも、また宇宙の運
行でもありません。実に"人間"がどうなるかが神の関心事であることが聖書全体に示されてい ます。
「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の
魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられ た。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに 彼らを創造された。」(創世記1:26〜27)
人間は神に似せられ限りない栄光をもったものとして創造されました。
「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がっ
たのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえって
その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると 言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののか たちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引 き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼 らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからで す。・・」(ローマ1:26〜27)
「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。 彼らは、その知性において暗く
なり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道 徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるように なっています。」(エペソ4:17〜19)
しかし、悪魔に誘惑されて罪の存在となりその栄光は失せて限りない汚れを持つものとなり、
その知恵は無知に変わり、神に従い神を礼拝するものとして創造されたにもかかわらず、鳥、 けもの、地をはうもの、石ころの類を拝むものと変わってしまいました。そして人間の肉体も死 ぬべきものとなりました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者
が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
父なる神は人間の救いのためにはご自分の独子をも惜しまれませんでした。
「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死に
までも従われたのです。」(ピリピ2:8)
御子イエス・キリストは人間の救いのために"神のあり方を捨てることができないとは考えな
いで、ご自分を無にして仕える者の姿をとり人間と同じようになられました。そして自分を卑しく し、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。"
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えにな
ります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の 御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしない からです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あ なたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16〜17・・他に14:26、15:26、16:7〜8など)
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよい
かわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにと りなしてくださいます。」(ローマ8:26)
聖霊は人間の救いのために"弱い人間たちを助け、言いようもない深いうめきによって人間
のためにとりなしをして"おられます。イエス・キリストは救いを準備されたのであって、その救 いを実際に人間の上に実現する・・すべての恵みを実際に届けてくださるお方は聖霊です。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではあ
りません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを 望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(ペテロU3:9)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みによ
り、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエ スを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それ は、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって 見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神 ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:23〜26)
「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰によ
る義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがある からです。」(ピリピ3:9)
「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名
と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたので す。」(コリントT6:11)
「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り
出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23〜24)
人間は唯一人の例外もなく神の備え給うた救いの道、すなわちイエス・キリストの十字架の贖
いを信じることによって失われた栄光を回復されます。
「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、
その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてください ますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでい てくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒 とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知 をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさ まにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:16〜19)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わり
を持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりで す。」(ヨハネT1:3)
その知恵は回復されて神の愛を知ることができるものとなり、神との交わりもまた回復されま
す。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光
から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きに よるのです。」(コリントU3:18)
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご
自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者
が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
そしてやがてやってくる神の国において栄光のからだを与えられるのです。
そして死ぬべき体に代えて永遠の命が与えられます。
信じる人々にそのような恵みが与えられるのであって、信じない人々にはそれが与えられ
ず、その不信のゆえに神の怒りにあうのです。
<まとめ>
人間こそが神の関心事であることをよく考えてみましょう。その関心の深さは親が子を思うこ
と、いやそれ以上であると神は語っておられます。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分 の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れな い。」(イザヤ49:15)
この神に信頼し、神の御心を求め、それを知らせていただき、それに生きて神とのお交わり
を経験させていただこうではありませんか。
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