「同労者」第39号(2002年12月)              目次に戻る      表紙に戻る

祈りの小部屋

 − サムエル・チャドウィック著「祈りの小径」から  −


・・さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われた
ので、「主よ。ここにおります。」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という
街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。(使徒
九の一○〜一一)

 神が祈祷に関して思っていたもう事を我らに語る一つの出来事がある。祈祷に就ける神の御
思いは凡ての祈るべき命令、凡ての祈りの律法、またすべての祈祷に関する約束と、凡ての
答えられた祈祷の実例に見られる。聖書の中の凡ての題目は究極的で完全な表れを有つも
ので、各部は全体の一部なのであるが、タルソのサウロの回心の出来事の中には、三つの人
格者が含まれている。[サウロの出来事]には祈った人、聴き給いし神、そして応答をを伝達す
るために用いられた人が含まれていた。神がその中心であり給う。祈祷がなされたのは神に
対してであり、彼を通して祈祷は解釈され、彼によって祈祷は答えられるのである。
 神は驚嘆の言葉をもって祈祷について語ってい給う。――
「見よ。彼は祈り居るなり」と。言葉は人間のそれであるが、人の知らされた唯一のものであ
る。よしそれがどんなに不十分なものであってたにせよ、神に於けるある現実問題を意味して
いる言葉である。神は驚嘆し得給うのであろうか?神にとって驚くべき事などあり得るのであろ
うか?とまれこれが神の語り給う方法であって神にとり祈祷にまさって栄えあり、驚くべきことは
何もないのである。神の大宇宙に於いて、祈る人よりも偉大なるものはないかの如くである。だ
が唯一つそれより更に驚くべきことがある。それは人がっそれを知りながら、なお祈ろうとしな
いことだ。『見よ!』――この語の中に、驚嘆、歓喜そして賞賛がこもっている。神の評価に於
いては、祈祷は諸天の驚異にまさり驚くべき事、地上の神秘のすべてにまさりて栄光あること、
大創造に働く諸々の力にまさりて力強きことなのである。
 神は祈祷を、ダマスコ途上のタルソのサウロに起こった事共の徴として解釈し給うのであ
る。・・ ・・
その経験とは何であったか?パウロはその経験において、神は御子を彼の内に顕わすをよし
とし給うたのであると言う。・・神がそれに就いて語り給う時は、すべてを「見よ。彼は祈り居るな
り」で要約してい給うのである。






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