「同労者」第39号(2002年12月)                目次に戻る    表紙に戻る

巻頭言
− 信 徒 説 教 − 
仙台聖泉キリスト教会   森田 心

「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現
されますように。」(ピリピ 1:11)

 私が子供の頃、丁度今の私の長男(12才)と同じ年齢の頃、信徒説教に立った父のことが
思い出されます。聖書を間違えずに読んで欲しい、上手にお話を、そしてスマート(かっこいい)
父であって欲しいと思いはじめていた時期だったと思います。そこで語られた父の説教の内容
は覚えておりませんが、その途中で涙を流し、かけていたメガネをとって声をあげて泣いた姿
が今でも鮮明に私の心の中に残っています。
 私は昨年先生方と役員の方々から、信徒説教の責務が与えられました。まだまだ弱く未熟で
あり、その人に対して十分な者ではないことを自ら知りながらも御用をさせていただけることに
喜びと感謝をしスタートさせていただきました。
 諸先輩方が説教の時が近づくにつけて、緊張感と心が落ち着かない日々が続き、その日が
やってくると10年も20年も御用をなさっているベテランの方でも、その気持ちの高まりを説教
の初めに語っておられますが、私も立たせていただく月に入った時、その意味が解りました。
よく学生の頃にもっと勉強をしておけばよかった…、といいますが、どんな知識があっても机の
上にたくさんの書物を乗せ上手にそれを用い継ぎ合わせてみても、それがメッセージにならな
いことを知らされています。昨年初めての御用と、今春2回目の御用をさせていただきました。
まだたった2回しか立っていない者ですが、そのことによって示されたことがありました。
 まだ教会の方々に対して組み立てられたメッセージを語るというより、自らの証しと信仰の告
白をもってそのことに代えさせていただいていますが、準備をさせていただく中で、自らの信仰
の歩みを見つめ直してそれをあらわそうとする時、なんとか上手にキレイにそして良い結論で
締めくくりたいと思いました。けれどもそう出来ない、自らが経験していない出来事をあたかも
通過したかのように語ることは出来ない、自らの力の足らなさもそのまま語らなければならない
ことを思わされました。それ故に講檀に立ってからでなく、そこにまで日々の歩みをどうなして
いくか、神様との約束に立ち、与えられた十字架を担い続けていくことによって、上手下手では
なく自らを通して神の栄光があらわされることが出来ることを願い、その御用に立っていきたく
願っています。
 そして父が流した涙というものが私もその年になって信徒説教に立ってみた時に解らせられ
感謝をしました。
 



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