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           ショートコラム ねだ 
           筆者の勤めていた会社には、敷地に隣接して草野球のできる野球場があった。それもちゃ
           
          んとダイヤモンドも芝生の部分も整備され、バックネットがあり外野にもフェンスのついた十分 な広さの野球場であった。 
           昼休みに野球部員がきて練習をしていたが、人数が少々足りない状況だったので一緒にや
           
          らせてもらった。 
           練習の方法は、守備には9人だけが正規のポジションに入り、余った人は順にバッターをす
           
          るのであった。ひとり10球くらい投げてもらったら守備の人間と交代する。ピッチャーは高校の 野球部でピッチャーをやっていた男で、30を過ぎていたがまだまだ草野球では通用する人物 であった。ちゃんとストライクを投げてくれる。 
           私がなかなか打てないので、「本当は打たせまい、打たせまいとして投げるのだが、打たせ
           
          よう打たせようと思って投げているのにや!これだ!」などと冗談を言っていた。 
           ボールを投げると、幼稚園児が同じ方の手と足をあげて歩くみたいだ・・とか言われながらも
           
          めげずに出かけた。その状況は2、3年続いたが、私が仲間に入れてもらった頃から野球場に やってくる人数がだんだん増えた。そうして昼休みの野球場は大盛況となった。 
           そうこうしているうちに、野球部のまとめ役をしているやつが、こう言い出した。「昼休みには、
           
          なるべく野球部員に練習させてくれ!」 
           一応もっともだ。それで取り巻き連中は遠慮して野球場には行かなくなった。
           
          
          だが、取り巻き連中が行かなくなったら、部員も来なくなった。
           
          
           "そして、誰もいなくなった!"
           
          
          と、映画の題名にでもなりそうなことになった。
           
          
           「取り巻き」を野球では「ファン」と言っていたが、サッカーでは「サポーター」すなわち「支え」と
           
          言うようになった。上記の事例があったので、なるほど「サポーター」だ!と妙に納得ができた 次第であった。 
           物事が動き栄えるのには、中心人物も必要だが取り巻きも必要なのである。
           
          
           我らの教会、その働きに必ずしも中心人物足り得ないこともあろうが、協力者、サポーターは
           
          凡ての人が勤まるだろう。 
            ♪ ナザレ人なるイエスのために
           
          
          ・・
           
          
              神の栄えのためにつくさん
           
          
          サポーターとしてでも。
           
          
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