「同労者」第39号(2002年12月)              目次に戻る      表紙に戻る

ショートコラム ねだ

 − と り ま き  −

 筆者の勤めていた会社には、敷地に隣接して草野球のできる野球場があった。それもちゃ
んとダイヤモンドも芝生の部分も整備され、バックネットがあり外野にもフェンスのついた十分
な広さの野球場であった。
 昼休みに野球部員がきて練習をしていたが、人数が少々足りない状況だったので一緒にや
らせてもらった。
 練習の方法は、守備には9人だけが正規のポジションに入り、余った人は順にバッターをす
るのであった。ひとり10球くらい投げてもらったら守備の人間と交代する。ピッチャーは高校の
野球部でピッチャーをやっていた男で、30を過ぎていたがまだまだ草野球では通用する人物
であった。ちゃんとストライクを投げてくれる。
 私がなかなか打てないので、「本当は打たせまい、打たせまいとして投げるのだが、打たせ
よう打たせようと思って投げているのにや!これだ!」などと冗談を言っていた。
 ボールを投げると、幼稚園児が同じ方の手と足をあげて歩くみたいだ・・とか言われながらも
めげずに出かけた。その状況は2、3年続いたが、私が仲間に入れてもらった頃から野球場に
やってくる人数がだんだん増えた。そうして昼休みの野球場は大盛況となった。
 
 そうこうしているうちに、野球部のまとめ役をしているやつが、こう言い出した。「昼休みには、
なるべく野球部員に練習させてくれ!」
 一応もっともだ。それで取り巻き連中は遠慮して野球場には行かなくなった。

だが、取り巻き連中が行かなくなったら、部員も来なくなった。
 "そして、誰もいなくなった!"
と、映画の題名にでもなりそうなことになった。

 「取り巻き」を野球では「ファン」と言っていたが、サッカーでは「サポーター」すなわち「支え」と
言うようになった。上記の事例があったので、なるほど「サポーター」だ!と妙に納得ができた
次第であった。

 物事が動き栄えるのには、中心人物も必要だが取り巻きも必要なのである。

 我らの教会、その働きに必ずしも中心人物足り得ないこともあろうが、協力者、サポーターは
凡ての人が勤まるだろう。
  ♪ ナザレ人なるイエスのために
・・
    神の栄えのためにつくさん
サポーターとしてでも。




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