「同労者」第39号(2002年12月)            目次に戻る     表紙に戻る

旅行記

― 聖地旅行見聞記 (21) ―

森聖泉キリスト教会  牧師 秋山 光雄

聖地旅行日程    1986年11月14日〜11月25日 (13日間)
日/曜日 出発地−到着地 主な訪問・見学地
22/土 エルサレム(モーリヤホテル) オリーブ山、ドーム教会、嘆きの壁、ビアドロローサ、
聖墳墓教会、ホーリーランド、ホロコースト博物館


11月22日(土) (前号のつづき)

 今日は私の57回目の誕生日、その日をエルサレムで迎えられた事を一人深く心に刻む。エ
ルサレムは北東側を回教とアラブ区域、北西側はクリスチャン、南東側はユダヤ人、南西側
はアルメニヤ人区域と大略、分かれているようだ。さて8時30分、先ず昨日も上ったオリーブ
山に再び行ってエルサレムを展望しつつ聖日礼拝、誕生日、そして中京教会献堂10周年記
念日と重なる恵みの11月23日に神の御名に心からの讃美を捧げる。司会は新嘉喜師、メッ
セージは後藤師。「我らがイサクであれ」と題してモリヤの山(ドームの教会)を望むオリーブ山
より意気深い説教をされた。締めくくりの祈りは私が指名された。後から長谷部師が"先生の
お祈りは感動しました"と伝えに来られた。集会献金について私は、もっと思い切った献金をす
るよう後藤師を通して一同にアピールするよう進言した。というのは下川師から「カイロでの礼
拝献金とガリラヤ湖畔での礼拝献金を併せて3万円ほど捧げられたが正直言って今までのツ
アー礼拝献金の中で一番少ないのではないか」という話を耳にしていた。35名の大の大人が
参加して2回で3万円とは少々恥ずかしい。思うに何のアピールもなしに只捧げた所に理由が
あったと思われる。後藤師のアピールによっていくら捧げられたか知らないが私は示された責
任だけは果たしたと思う。献金についてはいろいろ異なった教育を受けているから各人各様な
扱いをするであろうが献金も他人に分からぬだけに信仰の大きな証になるだろう。捧げる事を
もっと大胆に勧めまた捧げる恵みに与らせてあげなければならない。礼拝は私たちばかりでは
なく他のグループも行っていたようだ。朝日に映えるエルサレムを眺めての礼拝は生涯の記念
となるだろう。最高の誕生日を飾る礼拝だった。
 礼拝を終わり聖地旅行の頂点とも言うべきエルサレム旧市街の見学開始である。城壁の手
前で足を止め幾層にも積み重なった石垣の説明があった。一番下の大きな石はヘロデ時代の
ものその上は次の時代、更に上はトルコのスレーマン時代のものと言う具合でその変遷の歴
史がよく分かって興味深い。私たちは糞門ゲートから入ったがあ、ここでは一寸した検問があ
った。糞門と言う名は、ここから城内のごみや汚物が運び出された事から名づけられたよう
だ。糞門の近くで"からしだね"の木があったので少々ポケットに摘んできた。河谷氏はヘロデ
大王について次のように語ってくれた。「ヘロデは一種の建築マニア、石造りマニア、築城マニ
アではなかったかと思う。彼の作った神殿、マサダの要塞、ヘロデオン、マラカニアン宮殿など
単に勢力の誇示ばかりでなく非常に優れた建築者だった事は間違いない。ヘロデにはユダヤ
人に対する顔とローマに対する顔の二面がある。ユダヤ人に対しては律法を守り神殿を建て
免税を施し会堂のための援助を惜しまなかった。イドマヤ人あがりの彼が正統なユダヤの王と
しての形を保つための一生懸命だったその顔。いま一つローマのカイザルの前に立つとユダ
ヤ人の衣を脱ぎ捨てて国際人ヘロデの顔を持った。ローマ風の建築物をユダヤの随所に建て
たりローマ名のついた都市を作ったりした。


嘆きの教会

確かに彼の晩年は悲惨だったが彼の治世には並みいる列強の周辺諸国に囲まれながらも平
安と繁栄を築いた。往々にして大政治家はマスコミに叩かれるが大きな仕事をやってのける器
である。ヘロデもそんな一人であったと思う。そう言えばマスコミに叩かれた権力者が日本の目
白あたりにもいるようだ・・ヘロデはハスモン家から最愛の妻マリアンネを貰ったが、そのハス
モン家を滅ぼしマリアンネやその子らをも殺した。彼はその王国を支える資金に"からしだね"
のような香辛料をナバティ族に売り大金を得たのではないか、税金だけであれ程の建築がで
きるわけがない」。河谷氏のガイドを聞きながら思わされた事は、ヘロデ即悪と決めてかかる
前に私たちは充分に検討してみる必要があるように思う。それはヘロデに関してのみでなく全
ての思考体系に前提または結論を設定して取り組んではならないという事だ。そこに私たちは
誤った偏見から守られる道があると思う。とにかく人は自分の物差しで他人を計りやすいもの
だ。

ヘロデの神殿跡


からし種の木


嘆きの壁


嘆きの壁の石の部屋


嘆きの壁の前で筆者

 私たちは門をくぐり嘆きの壁(西の壁)の前に立った。壁に向かって右3分の1は婦人の庭、
左3分の2は男性の庭で境界線には鉄の柵が置かれている。嘆きの壁はエルサレムがAD70
年、ローマによって破壊された時、この壁のみが破壊から免れた。それ以来ユダヤ人は回復
の日を願ってこの壁の前で祈るのだ。安息日を過ぎたので多少人出は少なかったが、それで
も相当な人が例の黒帽子、黒服、黒ズボンのスタイルで熱心にユダヤ教典を読み、祈ってい
る。石壁に願い事を書いた紙片を押し込んで祈るのである。無数の紙片が挿入されている。私
も壁に手を置いて主の名によって祈ってきた。嘆きの壁はまた夜露にぬれたあ壁の草の光る
さまが涙に似ている所からエルサレムの回復の為に流すユダヤ人の涙とも言われているよう
だ。此処に入るには無帽の者は紙帽子を渡されそれを被って入らねばならない。石垣の左側
の入口を入ると広い石作りの室(シナゴグ)がある。その中には更に深い堀のようなものがあ
って下を覗くと照明に照らされた古い石垣が見える。それはソロモンの第1神殿時代のものと
言われる。歴史の事実と重みを感じさせられる。(この日の記つづく)




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