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          「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の
           
          魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』」と仰せられ た。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに 彼らを創造された。:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。 ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』つ いで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持っ て実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。』」(創世記 1: 26〜29) 
           仙台教会で「人間について」というテーマで行った聖書研究会の予稿と口頭で説明した事柄
           
          から転載しています。以下の項目に分けて検討しましたが、 
          1.聖書の人間観
           
          
          2.人間
           
          
           2.1神の像(かたち)・・人間が神の像に似せて創造されたとはどういうことか
           
          
           2.2人間の構成   ・・体、たましい(心)、霊
           
          
                       自我、人格、良心、などについて
           
          
          3.人間の主権と責任 ・・人間の自由と罪について
           
          
           先月は「1.聖書の人間観」だけ、記載しました。今回は聖書研究会の「2.人間 2.1神の像
           
          (かたち)」についてを掲載します。 
           2.人間
           
          
           2.1 神の像(かたち)
           
          
          (1)人間は神のかたちに造られた
           
          
           「神は人を神のかたちにお造りになった」(創世記9:6)と聖書は語っています。
           
          
          (2)神の像(かたち)とはどういう意味か
           
          
           それはどういうことを意味しているのでしょうか。まず以下の聖書箇所を読んで見ましょう。
           
          
          ・エペソ4:23〜24
           
          
          「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り
           
          出された、新しい人を身に着るべきことでした。」 
          ・コロサイ3:9〜10
           
          
          「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい
           
          人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」 
          ・ローマ8:29
           
          
          「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたから
           
          です。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」 
          ・コリントU3:18
           
          
          「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光
           
          から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きに よるのです。」 
           これらのみことばから、神の像(かたち)とは、人間の知的・道徳的性質にかかわっており、
           
          「父なる神」、「御子のかたち」、「栄光の主(聖霊)」の姿であり、「義と聖」であり、「古い人(肉 の性質)」とは相容れないものであることが分かります。 
           また以下の聖句も考えてみましょう。
           
          
          ・詩篇17:15
           
          
          「私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」
           
          
          ・民数記12:8
           
          
          「彼(モーセ)とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はま
           
          た、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難する のか。」 
          ・出エジプト記33:18〜23
           
          
          「すると、モーセは言った。『どうか、あなたの栄光を私に見せてください。』主は仰せられた。
           
          『わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよ う。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。』また仰せられた。『あな たはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから である。』また主は仰せられた。『見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の 上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたし が通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたし のうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。』」 
           R.A.トーレイはこのように説明しています。
           
          
          "神は霊であり、眼に見えないお方である(コロサイ1:15)が、肉眼にご自身を表し給う「形」を持っ
           
          ておられる。人間は単に知的・道徳的な存在として造られたのみでなく、眼に見える神の形に 造られたのである。" 
          ・ヨハネ14:9
           
          
          「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエ
           
          スは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわた しを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、"私たちに 父を見せてください。"と言うのですか。』」 
          ・ピリピ2:6〜7
           
          
          「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えない
           
          で、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」 
           イエス・キリストが神の貌(像、形、かたち)です。
           
          
          (3)人間が神の像(かたち)に似せて造られたとはどういう意味か
           
          
           人間(アダム)が神の像に似せらて造られたということは、人間に神の聖、神の義、善悪の判
           
          断力、良心などが与えられたことを意味しています。 
           ただし、試みに遭う以前のアダムは"無邪気"の状態であって、それらの道徳性は明らかにさ
           
          れていませんでした。 
           アダムが罪を犯し人類全体が罪の存在になりました。このことについては、3.人間の主権と
           
          責任の項で学ぶことにしますが、前記(2)にとりあげたみことばに、この失われた神のかたち が、イエス・キリストによって回復されることが示されています。 
          (4)自我について
           
          
           "我・私(わたくし)は"という認識も神の像を示しています。
           
          
          神ご自身が、"我・わたしは"と認識しておられます。
           
          
          ・創世記17:1
           
          
          「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。『わたしは全能の
           
          神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」 
          ・出エジプト記3:13〜14
           
          
          「モーセは神に申し上げた。『今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに"あなたが
           
          たの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。"と言えば、彼らは、"その名は何 ですか。"と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。』神はモーセに仰せられ た。『わたしは、"わたしはある。"という者である。』また仰せられた。『あなたはイスラエル人に こう告げなければならない。"わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。 "と。』」 
           自我という語は聖書の言葉ではなく、人間の哲学の用語です。自我とは「我」そのものであっ
           
          て、人霊の自分に対する認識です。その認識はすべての霊、即ち神、天使、悪霊も人間同様 に持っています。 
          「私は神の御前に立つガブリエルです。」(ルカ1:19)
           
          
          「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから。」(マルコ5:9)
           
          
           ハリソン・デービスはその著書「聖化論」の中で次のように述べています。「自我とは、それ自
           
          身と、それ以外のものとの区別に気づくものである。また自我とは、それ自身の内と外との変 化に気づくものである。これらの変化は経験と呼ばれる。…自我は他の自我とは決して混同さ れないが、他の自我と親密に交わることができる。…自分自身と交わることができる。…自我 は、経験によってそれ自身を知ることができるようになる。」 
           これは次のように理解されるべきです。
           
          
          ・人間は、自分を「我(私)」として認識する。それが「自我」である。
           
          
          ・人間は、自分と他を区別する能力を有する。
           
          
          ・人間)は、自分自身と他の人や物事の変化に気づく能力を有する。その気づくことが「経験」
           
          である。 
          ・人間は、他の霊と交わることができる。
           
          
          ・人間は、自分自身と交わることができる。
           
          
           「自我」は「人格」そのものの機能であると言って差し支えありません。「人格」については、「2.
           
          2 人間の構成」の項で学ぶことにします。 
           私たちの聖泉連合はキリスト教団体の中の「潔め派」と呼ばれるグループに所属していま
           
          す。そして「聖潔」、「潔め」、「聖化」などという用語で呼ばれている神が私たちに与えて下さる 一つの恵みの経験とその中にとどまる――それに生きること――が私たちにとって最も重要な 問題であるとしています。「潔め」が私たちの連合の看板なのです。 
           この大切な問題である潔めは、神の像(かたち)の中のアダムの時に失われた部分を回復し
           
          ていただくことに他なりません。 
          「あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたら
           
          される恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であった ときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたが た自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、 あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」(ペテロT1:13〜16) 
           つまり、失われた神の聖である像(かたち)に私たちが回復されるように、と命令されていま
           
          す。 
           なぜ「命令」なのでしょうか?命令は「行為、行い」つまり「意志決定」の問題に対応しているも
           
          のです。私たちの像が神の聖と同じであれと命令できるのはなぜでしょうか。それは私たちが 聖書に書かれている勧めを行いつまり聖霊のご指導に全く従い、イエス・キリストの贖いによっ て潔められると信じるなら「神の聖」が与えられるからです。 
          「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わり
           
          を保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネT1:7) 
           聖霊が私たちに示して下さる光に従って歩み、「神の聖」に与るものとならせて頂こうではあり
           
          ませんか。 
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