「同労者」第40号(2003年1月)              目次に戻る      表紙に戻る

あかし

 主は与え、主は取られる
中京聖泉キリスト教会   遠藤 明広

 私は、昨年結婚が与えられ、今年女児が与えられました。信仰を与えられたのは、東京の叔
父夫婦の導きや多くの方の祈りによって名古屋の地で14年前の救われました。
 ヨブ記1章21節に「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」とあります。私は
事情があって、東京から名古屋に手提げ鞄ひとつで来ました。もちろん、住むところも仕事もあ
りませんでした。最初の何日かは教会の会堂で生活させて頂きました。アルバイトを始め、ア
パートを借り生活するようになりました。教会に出席する事は、荒川教会の山本先生と約束し
ていましたので殆ど毎週礼拝に行くだけでは行っていました。多くの方の祈りや主の哀れみに
よって教会に行くことになった年に洗礼を受ける恵みが与えられました。でも、教会生活や社
会生活は順調ではありませんでした。仕事もいくつか変わりました。また、結婚を前提としてお
つきあいしていた人ともうまくいきませんでした。教会の中でも偽善者として自分自身をつくって
信仰生活を送っていました。心の中ではいつも満たされない思いでいっぱいで酒や煙草で自
分をごまかしていることもしていました。
 この様な中で自分自身がいやで嫌いでどうしても自分ばかりがうまく行かないのだろうと思う
様になりました。正に信仰のどん底でした。私は信仰をもつ前にも人生のどん底になりました
が、信仰のどん底もこたえました。このどん底の中で主は私に、主ご自身との深い交わりを与
えてくださいました。主は「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と交わってくだ
さいました。こんな私にさえも主の愛は変わらなく永遠であることを知りました。
 それから私は自分自身が大好きになりました。「主が私を愛してくださっている。」ことがわか
ったからです。それから少しずついろいろな変化がでてきました。主が導かれた教会・働くべき
会社・信仰の伴侶・家族が与えられています。又、自分にとって邪魔なもの、主を信じるために
いらないものを取って下さいました。主は数年をかけて取り扱ってくださり今も続いています。
 「主は与え、主は取られる。」主の御言葉の中に歩み、主に取り扱われていることは幸いで
す。




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