「同労者」第40号(2003年1月)              目次に戻る      表紙に戻る

祈りの小部屋

 − バウンズ著「祈祷の目的」44ページから −


 僅かなクリスチャンしか祈りの力に関して確実な思想を持っていない。しかもその力を経験し
ているものはなおさら僅かである。教会はその手に神が託したもうた力について全く無関心の
有様である。神の知恵と力の無限の源泉を使用することの出来るこの霊的な全権委任書はま
れに用いられるのみで、充分に神を崇める程度にまで用いられなかった。これを用いることも
これによって利益を得ることも驚くほど貧弱である。祈りは私たちの最大の武器であるがこれ
を用いるにはあまりにも不熟練であり、また用い方が逆である。私たちは異邦人のためにあら
ゆることをするが、神の欲したもうことをしない。
 祈りの学校を卒業することは宗教生活の全部を卒業することである。聖い生涯の第一歩とそ
の最後の段階は祈りをもって冠とされている。これは一生涯の仕事である。祈りの妨げは聖い
生涯の妨げである。祈りの条件は義と、聖潔と救いである。祈りの取引に於いて下手な人は救
いの商法においても失敗者である。
 祈りは学ぶべき仕事である。私たちは徒弟となってこれに時を費やさねばならない。骨惜し
みをしないことと、思慮深い実行と労苦が、祈りに於いて熟練した商人となるには必要である。
労苦と腕と心のみがこの天的商法における利益をもたらすのである。
 このような神との交わりから流れ出る利益と祝福とがあるにもかかわらず、私たちがあまり
祈らないという悲しい告白がなされるのはどういうわけであろうか。比較的少数の人しか集会
に於いて祈らない。またその家庭で祈る人は更に少ない。彼らの密室に退いて定期的に祈る
習慣を持つ人はさらにまた少ない。祈りのための特別な集会となるとちょうど6月の霜のように
まれである。祈祷会という名もなければ、そうした集まりすらない教会が少なくない。あちこちの
町や都会にある教会の祈祷会という名の集会は実際は祈祷会ではない。説教又は講演がそ
の中心である。祈りは申し訳だけの付けたりである。
 私たちは本質的にいって祈りの民ではない。そのことは生活を見ても明らかである。
 祈りと聖い生涯とは一つのものである。これらは相互的に作用している。どちらか一方だけで
成り立つものではない。どちらが欠けてもその一方がだめになる。
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