「同労者」第40号(2003年1月)              目次に戻る      表紙に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (32)  −

D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳

人々の証しの価値
 もし人々の証言を受け入れないとしたら、人間は当面する課題に行き詰まってしまうでしょ
う。もし私たちが他人の証言を無視するなら、どのようにして日常のお付き合いを続けていける
でしょうか。社会的なことや商業的なことがらは2日ともたずに動きがとれなくなるでしょう。これ
は次のような使徒の議論の流れです。「もし私たちが人の証しを受け入れるなら、神の証しは
より偉大です」。神はキリストについて証しなさいました。しばしば嘘を言い、絶えず不誠実な姿
を見せるような仲間を信じる人が、なぜ神とその言葉を受け入れず、その証しを信じないので
しょうか。
 信仰とは証しを信じることです。誰かが言うような向こう見ずの行動ではありません。そのよう
なものは全く信仰ではありません。神は何も信じる対象を与えずに信じなさいというようなこと
はおっしゃいません。何も信じる対象を与えないで信じなさいと言うのは、目を与えずに見るこ
とを求めたり、耳なしで聞くことを求めたり、足なしで歩いたりさせるのと同じことでしょう。
 カリフォルニアに行く時、私はガイドブックを手に入れました。その本が言うには、イリノイ州を
出発したならミシシッピ川を渡りミズーリを横切ってネブラスカに入り、ロッキー山脈をソルトレ
イクシティーにあるモルモン教徒の居留地に向かって越えて行き、そしてシエラネバダ山脈の
道に沿ってサンフランシスコへと進みなさいということでした。私は旅を進むにつれてガイドブッ
クの正確なことがわかってきました。しかしもし私が道のりの4分の3までそれが正しいとわか
りながら、残りの旅ではガイドブックを信じないとしたなら、疑い深くしかも哀れな人間としか言
いようがないでしょう。
 ある人が私に郵便局へ行く道を教えるときに10個の目印を示したとしましょう。私が進むに
連れて彼が示したとおりに9個までを見つけたとすれば、私は当然郵便局にたどり着けること
を信じるでしょう。
 そしてもし私が信じることによって今まで得たことの無い新しいいのちや希望、平和、喜び、
たましいの安息を得たとしたら、また自制心や悪に立ち向かい善を行う力を得たとしたら、私
は、神が設計し建設され、堅い基礎の上に建てられた都への正しい道を歩んでいることの力
強い証拠を手に入れていることになります。そして神の御言葉のとおりに物事が既に起こり、
今も起こりつつあるとするなら、これからのことも成就すると確信できます。それでも人々は疑
問を語っています。信仰とは無条件で御言葉によって神を受け入れることです。恐れのあると
ころに真の平和があるはずがありません。「全き愛は恐れを締め出します」夫を疑う妻がいる
としたら何とみじめなことでしょう。息子が家から離れていて、音信が無いことのゆえに、息子
の誠実な愛を母親が疑うとしたらなんと哀れなことでしょう。真実の愛は決して疑いません。
(つづく)




トップへ
トップへ
戻る
戻る