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          「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人
           
          は、生きものとなった。」(創世記2:7) 
           2.2 人間の構成(人間はどのようななりたちでできているか)
           
          
          (1)地のちりと息(霊)
           
          
           冒頭の聖書箇所に言う「息」とは、「霊」をさすと理解されています。
           
          
           人間は「肉体(地のちりで造られた部分)」と「霊(いのちの息)」から成っています。世の人々
           
          は人間と動物との差異を単に知能の差だけてあると考えていますが、この「霊」が動物と人間 の間に決定的な相違をもたらしています。 
           聖書には「人格」ということばは出てきません。聖書に示されている内容から考えて、「人格」
           
          を有するものは、神、天使たち、悪魔とその手下の悪霊たち、そして人間です。いずれも聖書 が「霊」と呼んでいるものであって、人格とは聖書でいう「霊」そのものを指していることが分かり ます。 
          (2)霊・たましい(魂)・からだ(体)
           
          
          「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリスト
           
          の来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守 られますように。」(テサロニケT5:23) 
           人間はこの聖書の言葉に示されるように、霊と魂(心)と体から成り立っています。テサロニ
           
          ケ人への手紙第一5章23節の訳語には、文語訳聖書では「心」と言う言葉が用いられていま したが、新改訳聖書では、「たましい」という言葉が使われました。いずれにしても、キリスト教 の世界ではどのような意味でたましい(魂)という用語を使うかということを承知して置くことが 必要です。 
           人間のこの「霊」、「魂(心)」、「体」から成る三重の構造こそ神の傑作であって、人間は霊界
           
          と自然界に跨る生き物となりました。人間のこの三部分のうち、霊界に属するのは、霊のみで あって、魂は自然界に属します。 
           この三重の構造をもつのは、人間とイエス・キリストのみです。人間以外の霊は魂を持ってい
           
          ないのに人格なのですから、人格を魂に関連づけて定義することは誤りです。 
          (3)たましい(心)の機能
           
          
           たましい(心)は「霊」の姿と働き特に意志を「からだ(体)」に結びつけてあらわす働きをしま
           
          す。 
           ギリシャ人はの魂の働きを「知・情・意」と三つに区分して表現しました。しかし、聖書の示す
           
          人間の姿には、良心や霊の世界に属することに関する「知・情・意」つまり私たちが「霊性」と 呼んでいる機能があります。また「信仰」や霊的品性すなわち「愛」に関わることもまた魂(心) の機能です。 
          <良心>
           
          
           それらの魂の機能のうち、「良心」について取り上げて、「キリスト教信仰の探求」の整理(p.
           
          276)を引用しましょう。 
          @すべての人が良心を持っている。
           
          
           つぎのみことばがすべての人は良心を持っていることを示しています。
           
          
          「(私・パウロは)・・恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理
           
          を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(コリントU4:2) 
          「彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。
           
          彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明 し合ったりしています。」(ローマ2:15) 
          A良心に従うのは、従わないと起こる結果を逃れるためではなく、その所作が正しいと知られ
           
          ているからなのである。 
          「ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」(ローマ13:5)
           
          
          B正しいと信ずることを行う者は、良き、または混じりなき良心の承認を有し、そうでない者
           
          は、悪しき良心の責め受ける。 
          「パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもっ
           
          て、神の前に生活して来ました。」(使徒23:1) 
          「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としていま
           
          す。」(テモテT1:5) 
          「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよ
           
          い水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘ ブル10:22) 
          C執拗な罪は良心を麻痺させる。
           
          
          「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の
           
          教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるもの です。彼らは良心が麻痺しており・・」(テモテT 4:1〜2) 
          D良心は個人に対し権威のあるものであるが無謬ではない。
           
          
          「しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじん
           
          で来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるので す。・・知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を 得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょう か。・・」(コリントT 8:7、10) 
          他に(コリントT 10:23〜)など。
           
          
          E良心の自由は、自分にとっても、他人にとっても最善であるという調和においてだけ、実行さ
           
          れるべきである。 
          「こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするので
           
          す。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになること が、私の望みです。」(コリントU 5:11) 
          「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と
           
          最善を尽くしています。」(使徒 24:16) 
          <霊的知情意>
           
          
           次に霊的な知情意について考察します。
           
          
          @霊的な理解(知性)
           
          
           読者の皆さんにはコリント人への手紙第一2章5節から16節まで全部読んで頂きたいと思い
           
          ます。 
          「・・ しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この
           
          世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義とし ての神の知恵であって、・・。・・神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この 賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用 います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御 霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟るこ とができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受け ている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。 
          ・・」(コリントT2:5〜16)
           
          
          「すべての聖徒とともに、その(キリストの愛の)広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理
           
          解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」 (エペソ3:16〜19) 
           ここに私たちが普通に生活する場であるキリストの救いにあずかっていないこの世の人たち
           
          に通用する知恵・知性・理解力とは全く別の、霊の世界の知恵・知性・理解力があることが示さ れています。 
          A霊的な感情
           
          
          (情)「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけ
           
          れども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これ は、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(ペテロT1:8〜9) 
          (情熱)「・・、霊に燃え、・・」(ローマ12:11)
           
          
          B霊的な意志
           
          
          「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れ
           
          から自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリントU7:1) 
           霊的な内容の出来事に自らの意志を働かせるものであることがここに示されています。
           
          
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