「同労者」第41号(2003年2月)              目次に戻る      表紙に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (33)  −

D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳

知ること、同意すること、自分のものにすること
 信仰にはなくてはならないものが三つあります。すなわち知ること、同意すること、そして自分
のものにすることです。
 まず私たちは神を知らなければなりません。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの
神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3、強調点著
者)。そして私たちは知っていることに同意するだけでなく、その真理に寄りすがらなくてはいけ
ません。それを自分のものにしなくてはならないのです。もし人が単に救いのご計画に同意す
るだけなら救われることはありません。キリストを救い主として受け入れなくてはならないので
す。主を受け入れ、自分のものとしなくてはならないのです。
 信じることによって人生がどんなに影響を受けるか言い尽くすことは出来ないと言う人たちが
います。たまたま私たちが居合わせた建物で誰かが「火事だ」と叫んだとします。するとご覧な
さい。どんなに素早く私たちはその言葉を信じて行動し、その建物から飛び出すことでしょう。
私たちはいつでも何を信じるかに影響されているのです。それはどうしようもないことなので
す。ですからもし誰かが、神がキリストについてお与えになった記録を信じるなら、直ちにその
人の人生すべてに影響を及ぼします。
 ヨハネの福音書5章24節をご覧なさい。その一つの節の中に、すべてのたましいが救いを
求めて寄りすがるのに十分な真理があります。それは疑いの影も許しません。「まことに、まこ
とに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永
遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(強調点著
者)。
 一人の人がキリストの言葉によく耳を傾け、御子を世の救い主としてお遣わしになった神を
心から信じ、この偉大な救いの御業に寄りすがり自分のものとするなら、裁きへの恐れは全く
ありません。その人は「大きな白い御座」(訳注:黙示録20章11節に記されている神の最後の
裁きの座)を恐れおののきながら見つめることはないのです。ヨハネが書いている通りです。
「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの
日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じよ
うな者であるからです」(ヨハネT4:17)
 もし私たちが信じるなら、私たちへの裁きも有罪判決も無いのです。それは私たちの後ろへ
と過ぎ去りました。私たちは裁きの日に大胆さを持つことが出来るのです。





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