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          「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だ
           
          れも主を見ることができません。」(ヘブル12:14〜16) 
           3.人間の主権と責任
           
          
           − 人間の自由と罪について −
           
          
           人間の自由と罪の問題が、キリスト教界、殊にプロテスタント教会の中で議論されるのは、カ
           
          ルビン神学の「人間は全的に堕落したものであって善を行う自由意志を持っていない。」という 思想にあります。もし自由がないのであれば、人間は設定したプログラムの通りに反応するロ ボットにすぎません。人間に似たロボットを造りたい人々がどうしても突き当たる問題は、ロボ ットには感情と自由意志を持たせることができない点にあります。自由意志をもっているかいな いかは正にその問題と同じなのです。 
           聖書が示しており、また私たちが実際に経験しているところは、神は人間に主権と責任を行
           
          使するにふさわしい能力を与え、その正しい行使の責任を求めておられるということです。 
          (1)人間に与えられた権威
           
          
          「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。」(サムエル記T2:30) 自分をを大切にして下さった人を大切
           
          にする、それが人間の自然の姿です。神も全く同様であって、神を尊ぶ人を尊んでくださると神 は宣言しておられます。このようなことが成り立つのは、神と人間が対等の位置に立っている ことを示しています。もちろん人間は神によって造られたものですから、対等ということは本来 あり得ないのですが、神はご自身に似せて人間を造り、人間に自分のことを決定する主権をお まかせになりました。そこに人間が自由であることと同時に自分の決定したこと、つまり自分の 行いに責任を持つ必要が出てきています。神は人間自分のことを決定する権威を授けられた のです。 
          (2)神の命令が啓示していること
           
          
          「信じなさい。」と神が命じられるとき、人間は信じることあるいはそれを拒否して信じない自由
           
          を持っているのです。その自由がないのであれば、この種の命令は意味をなしません。命令を 守ることが可能でありまた守らないことも可能であるが故にサウルがサムエルを通して神に言 われたようなことがおきます。 
          「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他
           
          のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、 雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あな たが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』」(列王記T15:22〜23) 
           人間が自由であるということと、神がその自由意志を働かせて人間が神のご命令に従って・・
           
          ロボットのようにただ機械として動くのではなく・・生きるということはいかに、生き生きとしたも のであることでしょう。従うことに対する神のお喜び、不服従に対する神のお怒りは、人間が自 らの行動に対する自由と責任を持っているが故のことです。 
           サウルが神の命令に従わなかったことを、神は彼の罪であると断定されました。人間の罪と
           
          神がそのために備えて救いについては別の機会に学びたいと思いますが、人間が自分に対し て主権をもち自分の行動を決定する自由を持っていることが、罪の存在そのものの前提となっ ています。 
          <まとめ>
           
          
          ・・本研究初回の「聖書の人間観」の内容をもう一度掲載してまとめに代えます。
           
          
          "人間"こそが聖書の中心テーマなのであって、天使でも悪魔でも動植物でも、また宇宙の運
           
          行でもありません。実に"人間"がどうなるかが神の関心事であることが聖書全体に示されてい ます。 
           人間は神に似せられ限りない栄光をもったものとして創造されました。しかし、悪魔に誘惑さ
           
          れて罪の存在となりその栄光は失せて限りない汚れを持つものとなり、その知恵は無知に変 わり、神に従い神を礼拝するものとして創造されたにもかかわらず、鳥、けもの、地をはうも の、石ころの類を拝むものと変わってしまいました。そして人間の肉体も死ぬべきものとなりま した。 
           父なる神は人間の救いのためにはご自分の独子をも惜しまれませんでした。御子イエス・キ
           
          リストは人間の救いのために"神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無 にして仕える者の姿をとり人間と同じようになられました。そして自分を卑しくし、死にまで従 い、実に十字架の死にまでも従われました。"聖霊は人間の救いのために"弱い人間たちを助 け、言いようもない深いうめきによって人間のためにとりなしをして"おられます。イエス・キリス トは救いを準備されたのであって、その救いを実際に人間の上に実現する・・すべての恵みを 実際に届けてくださるお方は聖霊です。 
           人間は唯一人の例外もなく神の備え給うた救いの道、すなわちイエス・キリストの十字架の贖
           
          いを信じることによって失われた栄光を回復されます。その知恵は回復されて神の愛を知るこ とができるものとなり、神との交わりもまた回復されます。またやがてやってくる神の国におい て栄光のからだを与えられるのです。そして死ぬべき体に代えて永遠の命が与えられます。 
           信じる人々にそのような恵みが与えられるのであって、信じない人々にはそれが与えられ
           
          ず、その不信のゆえに神の怒りにあうのです。 
           最後に、今回示したように人間は自らの行動に対する主権を与えられており、この恵みを受
           
          け取る(イエスを信じる)自由があり拒否する自由があります。信じてこの恵みに与かろうでは ありませんか。 
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