「同労者」第42号(2003年3月)                目次に戻る    表紙に戻る

巻頭言
− 聖 言 と 祈 り − 
仙台聖泉キリスト教会   森田 心

「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことが
できるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:13))

 冒頭の聖言は今年神様から与えられた箇所です。ある本に神のすべての武具とは「聖言と
祈り」であると書かれていました。
 1983年4月23日が私の救いの記念日です。救われた時から数年は毎日欠かさず聖書を
読んでいましたが、いつの間にかとぎれとぎれになり、ある時期は本当に集会の時しか開かな
い聖書になっていました。けれども2年ぐらい前から、もう一度日々聖書を開くようになり、聖言
が自らの生活の中に生きはじめました。
 祈りに於いても以前はただ神様に依りすがるだけのような祈りでしかありませんでした。祈り
というものがどういうものであるかもよく知らなかったのです。
 サムエル・チャドウィックの「祈りの小径」――これは昨年私共の教会のCS、野澤兄担当の
成人科クラスの中でテキストとして学んだ書です。――の中で、『キリストの御名によって祈ると
はキリストと一つになった者、その心は即キリストの心であり、その願望は即キリストの願望で
あり、その意図する所はキリストの意図したもう所と一つである者として祈ることである。』と書
かれています。若い時には、的はずれな事も荒削りな所も欠けた所があっても、経験の無さの
故に許されることもあるでしょう。けれども、いつまでもそのような者であったならば、年をかさ
ねるにつれ帳尻だけを合わせて自分の得手の部分だけの信仰者となってしまうように思いま
す。
 最近ネヘミヤを深く学ばせていただく時が与えられました。祈りの人であった彼の知恵と行動
力のすばらしさに多くの事柄を教えられました。
 私もただ自らの事を願うだけの祈りではなく、神の御旨と神の喜びたもうことを知る者となる
必要があることを思わされます。そのために、神のすべての武具を取り、光に従って信仰の戦
いを戦っていきたく願います。




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