「同労者」第42号(2003年3月)              目次に戻る      表紙に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記 (その25)  −
仙台聖泉キリスト教会  牧師 山本 嘉納


 子供だけでなく大人も夢中になるゲーム。私もはまった口だが最近はトンと付いて行けない。
ロールプレイングという分野があるがゲームの中の主人公になって色々なことを経験する。す
ると経験値なるものがたまって強くなったり、ゲーム内で色々便利なものが手に入ったりする。
謎解きや発見もあるが多くの時間をこつこつと経験値集めに費やす。子供たちが限られたプ
レイ時間ではどうにも収まらないのは、このためである。携帯できるゲームボーイアドバンスと
いうゲーム機がマイナーチェンジして便利になった。充電池が内蔵され、液晶にバックライトが
付いた。子供たちは安くなったとはいえまだまだ高い単3のアルカリ電池入手に苦労しなくてす
むようになった。液晶にバックライトが付いたので真っ暗な押入れの中に隠れても出来るように
なった。親子のゲームを中心としたいたちごっこはメーカーの技術革新によって助長されてい
る。
 数ヶ月掲載をお休みしていたのは決してゲームに夢中になっていたからではないが私達の
地上の生活も経験値なるものがあるように思う。色々なことを経験することによって多方面に
豊かになっていく。しかし、罪深い人間が果たして本当の意味で豊かになることが出来るだろう
か。全てを創造され全てを支配し、ご存知である神、その摂理にはぐくまれているこの世界で
あるがそれを知り、信じ生きるのでなければ同時に罪の覇権を持ってこの世を支配するサタン
の虜に過ぎない。神と共にある経験値は強く豊かな信仰者をつくり出すが、この世との妥協の
経験値は、不幸をもたらすものである。私達はキリストによって罪赦され神と共に歩む道に進
ませて頂いているが、決して罪から、サタンの誘惑から完全に隔離されているわけではない。
そして私達が経験する色々な出来事が私達のその後の生涯を強く左右する。ダビデの話を進
めてくる中で王としての彼の記録は、幸いもあるがその逆の現実が多くを占めている。姦淫事
件以降、彼の背中には、彼が経験した悲しい出来事に囚われて回復、開放されない重い十字
架が見える。
後継者問題が本気で考えられるのは、現職者の衰えや不足が見え始めるころである。決して
完全に失格ではないし間に合っている面もあるがだんだんと5年後10年後を考えるのである。
放物線は、右上がりばかりは続かない。
「その後、アブシャロムは自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入
れた。アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王の
ところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言ってい
た。『あなたはどこの町の者か。』その人が、『このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者
です。』と答えると、アブシャロムは彼に、『ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側
にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。』と言い、さらにアブシャロムは、『ああ、だれか
が私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに
来て、私がその訴えを正しくさばくのだが。』と言っていた。人が彼に近づいて、あいさつしようと
すると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。アブシャロムは、さばきのために
王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人
の心を盗んだ。」(サムエル記U15:1〜6) 問題をはらんでいたが将軍ヨアブの仲介によってエル
サレムに帰ることが許されたダビデの息子アブシャロムが少しずつではあるが動き出した。本
当に神を中心に和解していた王と王子、父と子ならば悲しい過去や色々な問題を乗り越えて
神の王国のために共に手を取り合って前進することが出来たであろう。しかし、この二人はそ
れが出来なかった。単に相手が誠意を持って心を開けば赦してやらない事も無いといった態
度をそれぞれがとっていたというのではない。アブシャロムはその器ではなかった。彼は神の
王国イスラエルの王になる資格はすでに失っていたし厳しい見方だかその資質も無かった。そ
れをきちんと宣告すべきダビデがその力を失っていたため間違った方向にいよいよ息子アブ
シャロムを向けて行ってしまったのである。ダビデは彼の背に負わされた十字架の重さに力を
削がれどうすることも出来なかった。この時点ではまだ見えない未来における本当の継承者、
ソロモンまでダビデ自信が自力で権勢を維持することは無理であるかのように見えた。神の力
が、この人の弱さの中にこそ明らかになっていく。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに
十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われ
たのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを
誇りましょう。」(コリントU12:9) 
過去を引きずらない人はいない。信仰者とはいえ例外ではない。偉大なダビデの業績、ダビデ
の強さ、彼の信仰の姿勢は聖書の語るところである。息子アブシャロムにその丈の足りないこ
とを告げ、認めさせ退かせる術はそれらにあるのではなくダビデ自信が主の恵みが自分に十
分であるとの信仰の境地に弱さの中に迎えなければならないのである。神の最善に身をゆだ
ねるべきダビデが求められている。
4年の時を経てアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。地道な路傍でのキャンペーンは、
彼の心のどうすることも出来ない暗い部分に光を当てる野望によって進められた。クーデター
の準備は着々と進んだ。彼の側にイスラエルの知恵者、ダビデの議官をしているギロ人アヒト
フェルが付いた。聖書は彼をバテ・シェバの祖父として記している。「ギロ人アヒトフェルの子エ
リアム。」(サムエル記U23:34)「ダビデは人をやって、その女について調べたところ、『あれはヘ
テ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。』との報告を受けた。」(同11:
3) 想像の域を出ないが、ダビデの姦淫事件の時、最も傷付いたのはこのアヒトフェルではな
いかと思う。今でもそうだが時代を超え家長の責任は大きい。議官であり補佐官であった彼に
とって孫娘バテ・シェバの不祥事は家のそれであり、王族と共に家の格式を高めようと考えて
いた彼にとって取り返しの付かない事件であった。現実は孫娘がダビデに召抱えられる形にな
っているがそれも見方によっては不自然なやり方である。大きいようでそうでもないダビデ王の
取り巻きの社会において彼の誇り高き現場とそこまでの労は無に帰した形となった。事件の処
理として愛する孫娘の命をとることも考えたであろうがダビデの寵愛を受けている者を亡き者と
することは出来なかった。きちんと処理できない不祥事はアヒトフェルをアブシャロムと同じよう
な不気味な人の心の暗闇に引きずり込んで行った。ダビデの補佐官として共に歩んできた器
の裏切りはダビデに大きな痛手を与える。この謀反がどちらに転がるか分からないほど危うい
ものであることをダビデに印象付けた。息子の手に掛かって滅ぼされる。あのアヒトフェルが敵
になった。自分を知り尽くした者に裏切られたら終わりであることをダビデは知っていた。簡単
な言葉で締めくくりたくは無いが、私達の全てを知っておられる主が決して裏切る方でないこ
と。私達の心がどんなに汚く醜くても。私達が主を知らないと何度否んでもこの方の愛と憐れみ
は私たちを離れないことを心から感謝する。





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