「同労者」第42号(2003年3月)            目次に戻る     表紙に戻る

旅行記

― 聖地旅行見聞記 (24) ―

森聖泉キリスト教会  牧師 秋山 光雄

聖地旅行日程    1986年11月14日〜11月25日 (13日間)
日/曜日 出発地−到着地 主な訪問・見学地
23/日 エルサレム(モーリヤホテル) オリーブ山、ドーム教会、嘆きの壁、ビアドロローサ、
聖墳墓教会、ホーリーランド、ホロコースト博物館


11月23日(日)
(前号からのつづき)次の訪問はユダヤ人虐殺のホロコースト館。その道には"いなご豆"の並
木があり皆それぞれ拾い集めていた。またユダヤ人虐殺の時、彼らのために命掛けで彼らを
助けた人達を記念する木とプレートが並んでいた。その中に日本人の杉浦千畝氏のものも置
かれていた。ホロコースト館は胸を締めつけられる思いで見学させられた。そして戦争とは、人
間とは、憎しみとは何であるかを考えさせらた。ドイツ人はこの記念館をどんな思いで見るのだ
ろうか。600万のユダヤ人を殺したナチス・ドイツ。ポーランド在住のユダ
ヤ人316万人中300万人が同じように殺されたと言う。河谷氏は解説する「彼らはAD70年、
エルサレム崩壊後、世界の各地に離散した(この離散のユダヤ人をディアスポラという)彼らは
結束し律法と唯一神教に固く立って異国においてもユダヤ人たる信仰を失うまいとした。当然
他国人からは疑いの目で見られ、嫌われ、疎外された。彼らは迫害のため益々結束し、生き
る希望を神に、また内なるものに求めた。

ホロコースト記念館 

彼らの武器は金であり知恵であり律法に立つ信仰であった。彼らは流浪の民ではあったが何
処においても侮れぬ不思議な力を持っていた。それがまた他国人からますます猜疑と嫌悪の
対象となった。この悪循環は拡大こそすれ鎮静することは無かった。彼らは只ユダヤ人という
だけの理由で何か起きるとスケープゴート(犠牲の羊)にされた。一方妥協の道を選んだユダ
ヤ人もいた。彼らは異国の文化に同化しユダヤ人を前面に出さなかった。一般人と少しも変わ
らず世界の民の中に浸透していった。彼らの中には喜劇王チャップリンあり、物理学者アイン
シュタインあり、政治家キッシンジャーあり屋根裏のバイオリンひきがあった。彼らは市民権を
持ち、善良な一市民として同化していった。しかし彼らは自分がユダヤ人だという烙印は決して
失わなかった。ユダヤ人とどこで認定するのか?それはユダヤ人を母として持つ者とした。ユ
ダヤ人を父として持つものは除外された。何故なら母が異教徒の場合、果たして父がユダヤ
人であると言う確証を得ることが困難だからである。このようにして各国の中でいきようとした
ユダヤ人を襲ったのがナチス・ドイツによるユダヤ人抹殺計画であった。無残にも彼らは欧州
を中心に600万人の大量虐殺をやったのである。もしヒットラーが負けなかったら、その数は
更に増えていただろう。正統派ユダヤ人も妥協波ユダヤ人も彼らは自分がユダヤ人であるこ
とを思い知らされた。生きる苦悩をともなった。我々はやはり故国へ帰ろう、神がアブラハムに
約束された地カナン(現パレスチナ)に戻ろう。それはシオニズムとして現れた。1948年シオ
ニスト達の夢は実現してイスラエルは独立国家として宣言した。未熟児は育って逞しい青年と
なった。彼らは結束してキブツを作りユダヤ人社会を作って行った。しかしその間の独立戦争
で6000人の血が流された。ユダヤ人のパレスチナ帰国は当然それまで其処に住んでいたア
ラブ人との衝突を免れることは出来なかった。一つの土地に複数が領土権を主張するとき避
けられない困難である。幾度かの小戦争は常に少数のイスラエル(ユダヤ人)の勝利に終わ
り、アラブ人は住み慣れた土地を追われた。彼らはイスラエルの政権下に生きるか、抵抗して
流浪の民となるか二者択一を迫られた。第二の難民(ユダヤ人ならぬ)アラブ人がこうして生ま
れざるを得なかった。国連は何度も調停に乗り出したが今も未解決であり、イスラエルは周辺
のアラブ諸国の共通の敵として対立している。これが中東紛争の底辺にある問題なのだ。地
図の上ではヨルダン領になっている所のヨルダン西側地帯(その中にエリコもサマリヤ、エル
サレムさえ入っている)も現実にはイスラエルの占領区域となっておりイスラエルの支配権の中
で目覚しい国作りが行われている。アブラハムがロトと別れたように、イスラエルがカナン人を
追い出したように、一つの国土を二つの国が占有権を主張して争う図式は古くて新しい問題で
ある。2000年の流浪・離散の苦しみを嘗めたユダヤ人がようやく独立を獲ち得てアブラハム
に約束されたカナン(パレスチナ)の地に居を得た今、彼らはどんな事があっても其処を死守
するに違いない。現在イスラエルを取り巻く周辺諸国、それはすべてアラブ諸国なのだがレバ
ノンは内紛中、エジプトはイスラエルと和平条約締結、ヨルダンは弱体化しており当面の緊張
関係はシリヤだけであり、それも力関係ではイスラエルの敵ではない。とすると益々イスラエル
は力を蓄えていくだろう。国土の広さにおいて周辺諸国に遠く及ばないにも関わらずイスラエル
をユダヤ人を多く抱えるアメリカは支持しアラブ諸国をソビエトが後押ししているのが現在の図
式なのだ。ユダヤ人問題を含めた中東問題が正に世界の平和の焦点と言われるのも、その
為である。
 ホロコースト館でナチスによる大量殺人のパネル、資料の見学を終わって最後のコースは死
海写本のあるエルサレム博物館の見学である。イスラエル国会(クネセット)の近くにあるこの
博物館は壷型をしている。それは死海写本の入っていた壷を現しているとの事である。円形の
ドームの中は外周にガラス入れの陳列品、中央の柱の部分に死海写本が置かれている。


イスラエル博物館

1946年クムランの洞窟からベドウィンによって発見された貴重な写本の数々。中でもイザヤ
書は大変貴重なものとされている。ころはBC200年頃のものであるらしい。時間が少ないた
め何か慌しく歩きこれ以外の博物館見学は出来なかった。
 薄暮、すべての日程を終わり博物館でのショッピングも済ませてホテルに戻りエルサレム最
後の夜の名残を惜しむ。この夜はホテルの店で最後の買い物をする仲間たちの姿があった。
明朝はテルアビブの飛行場発が早い為、念入りの注意事項を受けて早めに就寝した。4時モ
ーニングコール、5時ホテル発。従って荷物は今晩中に整理してドアの外に出しておくようにと
の事である。(この日の記つづく)



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