「同労者」第42号(2003年3月)              目次に戻る      表紙に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (34)  −

D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳

ポケットの中の恩赦状
  死刑が確実な裁判の渦中にいたある人の話を読んだことがあります。彼には権力者の友
人が何人かおり、その友人たちは王から、彼がきちんと裁判を受け、有罪判決も受けるという
条件付きで恩赦状を手に入れました。彼はその恩赦状をポケットに入れて法廷に出ました。法
廷の雰囲気は彼に非常に不利でした。裁判官は彼の平然とした態度にこの場の人々は憤慨
していると言いました。しかし判決が下されたとき彼はポケットから恩赦状を取り出して提出し、
自由の身になって出てきたのでした。彼は赦免されたのです。そして私たちも同じです。
 ですから死が来るなら来させなさい。私たちは全く恐れません。世界中のどんな墓堀人夫も
永遠のいのちを埋めるのに十分なほどの広さ、深さの墓穴を掘ることは出来ません。世界中
のどんな棺桶職人も永遠のいのちを入れるのに十分なほど大きく丈夫な棺桶を作ることは出
来ません。死は一度キリストに手をかけましたが二度目は決してありません。
 イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死ん
でも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ
11:25〜26)。また黙示録の中でよみがえられた主がヨハネに語っておられます。「(わたしは)
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとの
かぎを持っている」(黙示1:18)。死は再び主に触れることは出来ません。
 私たちは信じることによっていのちを得ました。事実私たちはアダムが失ったものより多くの
ものを得るのです。なぜなら神の贖われた子供はエデンの園でアダムが思い描くことが出来た
ものより、より豊かでより栄光に満ちた財産の相続人だからです。そうです。そしてその相続財
産はいつまでもなくならないのです。またそれは他人に譲ることはできません。
 私はエデンの園に住むよりは遥かに神の内にキリストとともに隠されたいのちを持つことを望
みます。それはアダムがエデンに1万年住んだとしてもその後で罪を犯し堕落したであろうから
です。しかしもしこれらのことが私たち信じる者にとって真実となるなら私たちはより確実なとこ
ろにいるのです。これらのことを作り事とせず、事実としましょう。神がそう言われたのですから
それで十分です。たとえ神を見出せないときでも神に信頼しましょう。次に「聖書の宝庫」の中
にある、簡潔ですが感動的な出来事を記します。そこに登場する少女マギーに見られるのと同
じ確信によって力を得ましょう。






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