「同労者」第43号(2003年5月)              目次に戻る      表紙に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記 (その26)  −
仙台聖泉キリスト教会  牧師 山本 嘉納


 親が子供に期待するのは愛の一部かもしれない。勿論、過ぎたり偏ったり無理強いは良くな
いが、見守る中での助言や助力は子を思う親の愛である。この期待は本来、神に対して祈り
求める福音に取って変わらなければ信仰者としての私達の生涯は、そうでないものと何も変わ
らなくなってしまう。確かに何を子供に教え育まなければならないかと問われて、神を畏れるこ
とであると答えてもその実が無ければ虚しい信仰者生涯である。今年もJSFセミナーに参加し
高校生科を担当した。10人にも満たない小さいクラスだ。私が彼等ぐらいの時は倍以上、3倍
位の仲間がいた。この頃は毎年、同じ顔ぶれが集まり楽しそうに短い期間を満喫している。分
科会といっても正直、取ってつけたような所が無かったわけではない。私自身、楽しく集い信仰
者であることを分かち合っている子供たちの姿を見るとそれで十分なように思えたからである。
しかし、この子供たちに未来の聖泉の教会がゆだねられていると考えると期待しないわけには
いかない。サマーキャンプで用いた資料で大人と同じ学びをした。彼らがどれだけ付いて来ら
れるか楽しみだったが、期待通り十分霊的な問題を捉える素地があった。勿論一方的な講義
ではなく、彼らの考えを聞きながら無理の無い聖書の学びをした。当然、あるべき回答を期待
して問いかけるのだが、時に思いもよらない回答に不思議な発見ともっと期待し共に歩むべき
若い魂の素養を感じた。ヨシュア記の最初に出てくるエリコの町の遊女ラハブの話をした。書
いてある物語は有名だがその実は意外と複雑である。神の御手の不思議な救いが記されてい
る幸いなストーリーのゆえに読み過ごされてしまう所だが、真相を究明しようとすると簡単では
ない。クラスの子供達にある程度それを分からせた後、彼らにもラハブの信仰を持つことを期
待した。彼女はここ一番の大勝負に、敵であるイスラエルの偵察をエリコの町の警察から守っ
た。一つ間違えれば自らの命がとられるかもしれない大勝負である。今の時代、この日本でそ
んなことはめったに無いだろうがとにかくそれをここでした。自分のためにではなく自分を含め
た家族のためである。愛する者のために生きる時、そこに福音があり信仰が生まれ思いもよ
らない神の御手が動くのである。棚ボタは信仰ではない。自分を蔑ろにしてはいけないが――
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、そ
れを救う――のである。キリストは愛に溢れ、あわれみに富み、恵み豊かで私達の必要をご存
知であるが、私達のいのちをお求めになる方であることをきちんと子供たちに福音として教え
なければならない。家族と教会のためにおのれを捨てる時がきっとあることを。
 ダビデの記録からサムエル記を学び続けている。息子アブシャロムに追われる形でエルサレ
ムを離れた彼の前途は暗かった。聖言がそれを見事に表している。「ダビデはオリーブ山の坂
を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみ
な、頭をおおい、泣きながら登った。」(サムエル記U15:30)
ダビデの生涯は70年である。彼が息子アブシャロムによって都落ちしたのはおよそ60歳位で
ある。だんだん人生に陰りが出て来た時に、そこまで築き上げたものを失う恐怖は計り知れな
い。冷静さを失って本来の自らのあり方をかなぐり捨てて落ちていく例は少なくない。先代のサ
ウル王がその良い例である。しかし、ダビデはだてに修羅場をくぐって来てはいなかった。なぜ
このようなことが自らに降りかかるのかを悩みながらも神を信じて歩むべきこと、自らをきちん
とコントロールして当座の責任を果たさなければならないことを知っている。まず「さあ、逃げよ
う。そうでないと、アブシャロムからのがれる者はなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく
追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの町を打つといけないから。」と考え避難した。エ
ルサレムは要塞の町だがこのような状態で怖いのは、誰が敵で誰が見方かである。要塞の中
に敵がいたのでは意味が無い。万が一戦場と化したらイスラエルの首都は崩壊し再建に多く
の時間を要する。これを機に敵国が動くかもしれない。一旦退いて形成を立て直すのが得策で
ある。これらの一つ一つを挙げればいくらでも挙げられるダビデの優れたところである。しか
し、一番大切なのは自らの能力にあるのではない。彼が落ち延る道を選んだ本当の理由は彼
が彼の仕え続けて来たイスラエルの神、主に信任されているかどうかであった。ダビデは彼と
一緒に逃げようとした祭司、ツァドクに言った。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵み
をいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。も
し主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思
われることをしてくださるように。」(サムエル記U15:25〜26) 間違えていけないのは、これは人の
救いの問題を言っているのではない。彼が神を信じていること、地上の生涯がどんな形で終わ
ったとしても永遠の命が約束されていることは間違いないのである。私達もキリストを信じ救わ
れた今、この地上の生涯が終わり永遠の御国に引いて頂けるのである。ここでのダビデの問
題は、責任者、神の王国の長としての役割に足るものであるかどうかである。責任者が常にこ
のような厳しい信任の確認をし続けている組織は決して倒れることはない。神の世界の話だけ
ではなくこれはどこにでも通じる真理である。ことさら神が生きて働いているのであるなら神の
前に畏れかしこんで生きなければならない。
 止めを刺すように聞こえてきたのはこの謀反へのアヒトフェルの加担である。ダビデの問題
は息子アブシャロムではない。今、アブシャロムの補佐官であるが元はダビデの議官として働
いていたアヒトフェルの存在である。前回も書いたが彼はダビデと共に戦い続けてきた彼の片
腕である。ダビデのことはその一部始終を知り尽くしているのである。思わず彼の口に出てき
た祈りは、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」 (サムエル記U15:31)で
あった。信任を問いつつも自らの神への信頼はピンチの中でほとばしる祈りの泉である。彼と
共に逃げる者にも同じ知らせが入っていたことだろう。間をおかずに祈る姿勢を取るダビデに
周りの者は過去の多くの困難から救い出してくださった主の影を見たことだろう。歴史はこの
祈りが聞かれたことを示している。
 私達は生涯を主に献げた者である事実を信仰によって確認し確信しなければならない。なぜ
ならダビデのように信任を受け続けなければそれを全うすることはできない。口でいくら聖めや
献身を告白しても信仰を持って主に信頼しなければ私達のものにはならない。自分で蒔いた
種を刈り取っているダビデは恐れて違う者の信任を求めるのではなく、それでもここまで信じて
歩んできた主の手に陥り献身を成就したのである。私達の生涯もおそらく後悔と自責の連続だ
ろう。しかし、へりくだって主に信頼するものに主はいつまでも期待し必要な助けをおしまれな
い方であることを感謝する。



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