「同労者」第43号(2003年5月)                  目次に戻る    表紙に戻る

論  説
 ― イースターの意義を考えよう ―


 今年のイースターは、4月20日でした。キリスト教の節季が巡ってくる毎にその意義を考察
し、自らの信仰の基盤として把握することが大切です。
 イースターは日本語では復活祭あるいは復活節とも言います。「節」は時期をあらわすことば
ですから、「復活祭」と呼ぶほうがよいと思われます。「祭」は「まつる(祀る)」つまり楽を奏しな
がら礼拝することを意味することばであるからです。復活の記念の時に主のよみがえりの持つ
意義をわきまえて礼拝し、その復活に与る信仰を深めさせて頂きたいものです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者
が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) これはクリスチャ
ンの間で、もっともよく口にされるみことばでしょう。私たちはこのみことばをそらんじ、時には
曲をつけて歌います。しかし、永遠のいのちをどれだけ自分のものとして頂いているでしょう
か。そしてこの永遠のいのちは、私たちが十字架の贖いに与り、キリストと同じように復活した
後に与えられるものだということをどれだけ理解しているでしょうか。確かにそれは生きている
うちに新生のいのちとして私たちのうちに始まっているものではありますが。
イエス・キリストは自らこう言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにい
のちを捨てます。・・わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。・・そして彼らはわたしについて
来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」(ヨハネ10:11、27、28) この永遠のいのちは
イエス・キリストの死によって羊であるわたくしたちに備えられ、イエスの声すなわち聖書のこと
ばに従う人々にそれが与えられるものであることがここに示されています。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:
25)この永遠のいのちはイエス・キリストご自身の中にあるものであって、信仰によってそれが
私たちに与えられるものです。
 パウロはこう解説しています。
「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信
仰も実質のないものになるのです。・・そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなた
がたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キ
リストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。」(コリントT 15:14、17、18)
キリストの復活は、私たちの罪の赦しと永遠のいのちに与る約束の保証です。神を畏れてみこ
とばを信じ、その約束に与るものとさせて頂こうではありませんか。






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