「同労者」第43号(2003年5月)              目次に戻る      表紙に戻る

信仰良書

 − ドワイト L ムーディーの物語  −


(D.L.Moody に関するホームページに英文で掲載されていたものです。著者などの特定は出来
ませんが、ムーディの生涯に関する記述として誤りはないであろうと思われます。編集委員訳)



 ムーディーは、マサチューセッツ州ノースフィールドで育てられて、ジョナサン・エドワーズ、ハ
リエット・ビーチャー・ストウ、オリバー・ウェンデル・ホームズ、グローヴァー・クリーブランドとフ
ランクリン・D・ルーズベルト大統領らと関係がありました。けれどもムーディーの少年時代に
は、彼がこれらの有名な人々と同じようになるであろうということを暗示するものは何もありま
せんでした。ムーディーがまだ若かったとき、彼の父親は6人の兄弟、2人の姉妹と心を病ん
だ母親を残して死に、彼には貧乏のために絶えず苦闘をするという状態が残されました。17
才で、ムーディーはボストンに移り彼の叔父のくつ店で働きました。ボストンにいる間、ムーディ
ーはマウントバーノン組合教会に出席しました。そこでキンバルという名前の人が、イエス・キリ
ストとDLムーディーを結び付け、ムーディーの生涯を永久に変えるものとなった集会に彼を連
れていきました。
 1856年に、ムーディーは、彼の家族に何も話さないで、シカゴに向かって出発しました。シカ
ゴに到着すると、彼は家族に急いで次のような手紙をだしました。
「神はここボストンでも同じお方です。」
あるブーツ店がムーディーを雇いましたが、くつを売ることはもう彼の唯一の目的ではありませ
んでした。今や彼は人々に主について語り始めました。彼はプリマス教会に席をおきました
が、街に出てゆき自分の席だけでなく子供たちで4つの席を満たしました。ムーディーはシカゴ
の社会階級のトップランクの人々とも、路上で生活するような人々とも関係をもつことができま
した。その働きは大きくなり、彼はさらに大きい街々を求め、「小地獄」として知られている北マ
ーケット・ストリートのエリアの汚いビヤホールを賃りました。ムーディーは毎週日曜日に500
人以上の人々でそれを満たしました。
 ムーディーが成功したという知らせが次期大統領アブラハム・リンカーンに届きました。それ
でリンカーンは最初の就任式にスプリングフィールドからワシントン D.C. まで行く途中、ムーデ
ィーに会うために立ち寄りました。別れの際、リンカーンは日曜学校の生徒たちに、「あなたが
たの先生から学んだことを実行しなさい。そうすればあなたのうちの何人かが私と同じようにア
メリカ大統領になるでしょう。」と言いました。リンカーンが大統領をしている間に、後にキリスト
教青年会(YMCA)として知られるに至る運動が起きましたが、それはムーディーの働きの証
明でした。その運動と最終的に並行するものとされた組織YWCA、が英国において起こされま
したが、それも同じくDLムーディーによるものです。  1860年まで戦争の嵐が吹き荒れまし
たが、ムーディーは「仲間の人間を撃ち落とす」ことに耐えることができませんでした。それで彼
は連合軍兵士たちの間でミッショナリー礼拝を指揮しました。更に彼は南方のシロ、マーフレス
ボロ、チャタヌーガに向かう軍のボランティアの従軍牧師になりました。そして彼はリッチモンド
に最初に進軍した軍隊の中にいました。彼はいくつかの異なった時に前線を訪問しましたた。
 戦争の間にムーディは恋をし、1862年にエマ・リーヴェルと結婚しました。
 戦争後、YMCAと日曜学校が彼の最関心事でした。
 彼の回心者たちが成長するにつれて、ムーディーは彼らが霊的に養われて成長することが
できるように、大きい建物を建てなければならないと悟りました。それで1864年、12人の設
立会員と共に、ムーディーは1,500人が礼拝できる講堂のあるイリノイ・ストリート独立教会を
開きました。教会はJHと呼ばれました。ハワードがその教会の牧師であり、ムーディーは執事
の役をしました。この出来事は今日のムーディ教会の誕生の元となりました。
 やがて1871年10月のシカゴの火災がYMCAと教会とDLムーディの家を破壊したので、彼
は行動を起こし、数週間の内に新しい建物、ノースサイド・タバナクル(大会堂)、を再建し、そ
れらを家を失っていた何千の人々に食事を与え衣服を着せるための救済センターに変えまし
た。
 それからムーディーは、以前は教会の会計役であった彼の才能ある独唱者、イラ・サンキー
とともに福音を携えて英国に行きました。二人のコンビは目を見張るような成功を得ました。最
初英国人は、ムーディーの型にはまらないスタイルの説教、彼のアクセントと時折出る程度の
低い英語になじめませんでしたが、神の御霊が働きを始められました。彼の特別伝道会は何
週間も、次に数カ月にも及びました。グラッドストン英国首相を含む政府のリーダーが、ムーデ
ィーを賞賛し推奨しました。ムーディーと サンキーはスコットランドに移動し、ある日彼は推定5
0,000の人々に屋外で馬車の上から説教しました。二人はアイルランドに行ってベルファース
トで説教し、それからロンドンに戻りました。これは聴衆が250万人を超えた彼の最も素晴らし
い勝利でした。ムーディーとサンキーは二人ともイギリス諸島特別伝道会の成功を意に介しま
せんでした。彼らは英国を潔めたもうた聖霊の力がその成功の源であると悟ったからです。
 もしそれが英国で起きることができたなら、それはアメリカでも起きることができるでしょう。ム
ーディーはアメリカにおけるリバイバルを提唱し始めました。アメリカ国民はそれを必要として
いました。すべての戦争と同様に南北戦争が社会のモラルを混乱させていました。人々は安
易な富を追い求めていました。腐敗が政府高官の間に浸透していました。ムーディーの目標都
市はニューヨーク、ブルックリンとフィラデルフィアでした。1875年10月に、何千という貧しい
人々も富んでいる人々も、主イエスキリスを知るためにやってきました。フィラデルフィアで、グ
ラント大統領と彼の内閣のメンバーはムーディーと一緒に講壇上に座りました。特別伝道会が
シカゴ、ボストン、クリーブランド、 シンシナティ 、リッチモンド、デンバー、コロラドスプリング
ス、セントルイスとサンフランシスコで続きました。もっと時間があれば、ムーディーはカナダや
メキシコでも同じ様に集会をすることができたはずです。彼らも同じく彼に来て貰いたかったの
です。
 ムーディーの地上での生涯が終わったとき、それは神のみ旨による悲しみではありました
が、アメリカとヨーロッパ、世界さえ彼の死を悼みました。神はこの謙虚な普通の男を用いて、
何百万という人々の生涯を変貌させ、そしてまさしくその時に、世界に永続的なインパクトを与
え続ける霊的遺産を残されました。肩幅の広いずんぐりとした男は、「広い肩の街」、カール・サ
ンバーグにムーディー教会とムーディー聖書学院を設立し、彼の消えることのない痕跡を残し
ました。はじめシカゴがこの力強い説教者を求めましたが、彼が死んだ時までには世界が彼を
求めました。
 新世紀到来の直前の時、1899年12月の曇った日に、彼らはマサチューセッツ州ノースフィ
ールドで、彼の生まれた場所からたった数百ヤードの所の丸い小さな丘の頂上にDLムーディ
ーを葬りました。けれども地上で彼が働いた65年の間に、ムーディーは何千マイルもの旅行を
し、何百万という人々に彼の救い主について宣べ伝えました。
 世界は一度もまったく同じであったことがありません。(彼の行くところ人々が救われその社
会が変わらなかったことは決してありませんでした。)


トップへ
トップへ
戻る
戻る