「同労者」第43号(2003年5月)                目次に戻る  表紙に戻る

わかふうふわかもん

 − 悲しむ者は幸いです −

仙台聖泉キリスト教会  山田 行

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

こんなにも涙が出るのかとびっくりするくらい次から次へとこぼれました。何をするにも、何を見
ても悲しくてさみしくてまた涙があふれました。2月26日、愛する野澤靖乃姉妹が天に召されろ
という出来事は私にとって本当に悲しみの中へ突き落とされる者でした。
 私の机の上には姉妹の写真があります。昨年の夏、娘の修子さんと二人並んで写したもの
で本当に幸いな笑顔です。それを見る度に"信じられない"と今だに口に出してしまうほど、そ
の出来事を受け入れるということは大変つらいものでありました。私でさえこのような悲しみの
中にあるのですから、そばにいた野澤兄弟や娘さんたちはどんなにつらく悲しいことだろうと胸
が痛みます。しかし、神を愛しその生涯を献げ尽くしていた姉妹と野澤兄を神はずっとこの悲し
みの中においておく方ではないことは感じ信じて降ります。今は私自身はわかりませんが、少
しずつこの意味が理解できるように祈り求めていきたいと思います。そして人知をはるかに越
えたキリストの愛となぐさめがご家族の上に益々あるように祈りつづけたいと思っています。
 私が4才の時、靖乃姉妹が結婚して仙台へいらっしゃいました。教会のお手伝いをしてくれた
おねえさん、弟の出産で母が入院した時も私のさみしい気持ちをぎゅっとだきしめてなぐさめて
下さったことを思い出します。そして若い時救いの為に祈り多くの心づかいをして下さり、どん
な時にもはげましたそこに多くの犠牲をはらって愛しつづけて下さったのです。そして娘さんた
ちの救いの為に靖乃姉妹は本気で命がけで祈り立ちつづける姿を見せて下さったのです。
 最近、"悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。"というみ言葉が礼拝のメッセ
ージで解き明かされました。
"悲しむ者"とは愛する者へのこだわり、ゆずれない愛、あきらめない思いがあるからこそ悲し
む事であるという事でした。
私はそのメッセージを聞いたとたん、靖乃姉妹の姿が思い出されました。娘さんたちの救いの
為に涙しながら祈る姿を何度も見ていた〜です。長い間同じ祈りを涙なしでは祈れなかったの
ではないでしょうか。最愛の者が罪の中にいる、サタンの世界に生きつづけるほど親として信
仰者として苦しみ悲しみはないと思いました。そしてみことばの後半の部分の"その人は慰めら
れるからです。"そうです。娘さんはとうとう神の前に罪を悔い改め救いの恵みを受けたのでし
た。姉妹の涙の代価、長い忍耐の祈りに神は最高のなぐさめを与えて下さったのです。その時
の姉妹の安堵にみちた笑顔を私は一生忘れないことでしょう。
姉妹が亡くなる一週間前、祈祷会の帰りに最後に私に言って下さった言葉は「修子をよろしく
お願いします。」弟子他。私は小さな時から修子さん美香さんと家族のように共に育てられた者
です。そしてこれからも彼女たちと共に神の愛の中で生きつづけたいと願っています。姉妹が
私に多くの愛を下さったように、私も彼女たちを愛しつづけたいと願っています。うれしい時も
悲しい時もどんな時も、靖乃姉妹の信仰を受け継ぎ彼女たちと一歩一歩進ませて頂きたいと
願っています。


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