巻頭言 られた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅 貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、 こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れて いたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女 は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」(マルコ12:41〜 44) 最近、山本先生の語られた聖書の中で 二ヶ所、心に留まりました。 一ヶ所はマタイの福音書20章1〜16節、ぶどう園で働く労務者の譬え話です。 ここでは朝早くから働いた労務者は若くて体力があり、長時間の労働と暑さに耐え、仕事を 多くこなす人、五時頃雇われた人は体力のない老人や子供と考えるのが正しいと思います。こ こに書かれている「神の平等、公平」という永遠のテーマに対して答えを見い出したということで はありませんが、(答えがわかったかたは是非同労者に投稿して下さい)体力に差があるとは 考えなかった頃よりも聖書を深く理解することが出来ました。 もう一ヶ所はマルコの福音書12章1〜4節にある金持ちとやもめの献金のところです。 何度も読んだことがあるのですが、レプタ銅貨が二つであったことに気がつきませんでした。 一つは神に当然献げるための銅貨、もう一つは自分のために使ってもよい銅貨です。 今年になって愛する三人の姉妹を失うという悲しい出来事がありましたが、私にとって長男が 救われたことは(同労者第41号に証が書いてあります。)「汝の若い日に、汝の造り主を覚え よ。」の聖句が成就した大きな喜びでありました。それ以上に教会の兄姉が祝福して下さり、愛 されていることを感じました。教会の方々に長い間祈り、愛し、育てていただいたことが実を結 んだと思いました。救われなかった故に、空しい大学生活を送った私と違い、神第一の充実し た四年間であるように願っています。 息子だけでなく教会にいる同年代の若い兄姉にとって、これからの世の中は、同労者第42 号の論説に書かれたように、表面は平和で豊かで自由で良い時代のように見えますが、決し て生きやすいとは思えません。 自分のしたいことを神に献げることが、これからの社会を生き抜く鍵となってきます。今の自 由な時代にこそ、二千年の昔名もない貧しいやもめの献げた残り一つのレプタ銅貨が、大切 であり輝くのであると思います。
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