「同労者」第45号(2003年7月)                目次に戻る    表紙に戻る

巻頭言
− 私 の 堅 い 食 物 − 
仙台聖泉キリスト教会   茂永 進

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことば
の初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、
乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じ
てはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と
悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:12〜14) 


 私が聖書研究会の担当をさせていただくようになって4年目になります。現在担当者は4名
で、ローテーションを組みながら毎月最終の火曜日に開かれています。テーマは担当者毎に任
されていますが、共通していることは、ただ聖書を詳しく注解するだけに留まっていないことで
す。学びの中に確かに担当者と神様との霊的な深い交わりがある解き証しがなされているの
です。
私はこの聖書研究会の担当者になるにあたって、「これくらいの学びなら自分にも出来る」と自
負していました。ちょっと参考書をかじって、自分なりの考えを入れさえすればいいんだと思っ
ていました。最初のうちは自分の関心のある聖書の人物やイェスさまの例え話などを取り上げ
ながらやっていましたが、2年目の最後の担当したときだったと思います。会の締めくくりのとき
に主牧先生から「いつまで君はこんな聖書研究会をやっているんだ。いつまでも自己流な理解
でやるんじゃないよ。」と強くお叱りを受けました。ガーンと頭をぶたれたような思いで、私はこ
のとき初めて自分がどれほど安易に聖書研究会の担当をしていたかを思い知りました。しばら
く立ち直ることが出来ず途方にくれていましたが、先輩の担当者の方にアドバイスを頂きなが
ら、聖書の的確な講解がなされている参考書をもとにして自己流の解釈に陥らない学びの進
め方をはじめました。
私が現在取り組んでいるのは「ヘブル人への手紙」です。学びを進めれば進めるほど、霊的な
経験がなければ理解することが大変困難な箇所であることを実感しています。 4章は「神の
安息」について記されているところですが、私にはどうしてもこの「神の安息」がどういうことなの
か解りませんでした。注解書等にも意味が書かれていなかったため、先輩の担当者の方に答
えを聞いたところ、「これは潔めのことだよ。」との回答を頂きました。しかし、どうしても自分の
ものとして実感し、受け入れることが出来ませんでした。そのような確信のない状況でしたが、
私は正直に理解できないことをこの学びの担当のときに告白しました。すると、参加していた
方々の感想やお証しを通して、私の足らないところを充分に補えた幸いな聖書研究会になりま
した。神様のみわざがなされたことを心から感謝しました。私は、担当者の器としては本当に
ふさわしくないと思える者ですが、この御用にこれからもしがみついていこうと思います。私にと
って、堅い食物であり続ける聖書研究会を目指して。




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