「同労者」第45号(2003年7月)              目次に戻る      表紙に戻る

ショートコラム ねだ

 − 演繹法(えんえきほう)と帰納法(きのうほう)  −


  「演繹法と帰納法ですって!そんなもののお世話にはなりませんよ。私は。」
まあまあ皆さんそう仰らずに!パソコン同様、使い慣れれば便利なものですから。
 何に使うものですかって、物事の説明をするときに、自分と相手を納得させるために使う道
具ですよ。まあ例を挙げてご説明しましょう。
では例題一。
 信仰はおおよそ宗教を信じる者にとって最も大切なものであることは言うまでもない。信仰に
よって私たちは救われる。だがその信仰とは何であるかという見解はプロテスタント教会の各
教派によってまちまちである。私たちが信ずべき「信仰」ついて、
<「信仰」は「意志的行為」である。>
ということを説明してみよう。
1.「命令」に対する応答は、「意志的行為」で行う。
2.「命令」に対する応答は「意志的行為」以外には存在しない。「意志」することができないこと
は命令されても、行うことができない。
3.「信仰」は『信じなさい。』と命令されていることである。信じなさいと言う命令は聖書の中にたく
さんでてくる。
4.よって「信仰は意志的行為である。」と結論される。
 この説明のしかたを<演繹法>というのである。
はい。まず演繹法のお世話になりました。
 さて例題二。
 だがしかし、"信仰は行いである。"と断定すると、こう心配する方も居られるかも知れない。
<私たちは行いによるのではなく、信仰によって救われるのである。信仰は行いである、という
と矛盾ではないか?>
この疑問にお答えしよう。
1.信仰と行いの問題は、ローマ人への手紙3章〜5章、ガラテヤ人への手紙2章から5章にパ
ウロが詳しく説明している。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰に
よるというのが私たちの考えです。」(ローマ3:28)「人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ2:16) 「行い」とだけ書いてあ
るところもあれば「律法の行い」と書いてあるところもある。詳細は省略するが、パウロが述べ
ている内容はすべて「律法の行い」である。つまり、旧約聖書の動物の犠牲による贖いときょ
めの儀式、生活上の様々な規定を行うことを指している。
 このように結論する方法を<帰納法>というのである。
2.「律法の行い」は「行い」のすべてではない。
3.よって<「信仰は意志的行為である」ということは矛盾ではない。「信仰という意志的行為によ
って救われる」のである。>もちろん「信仰以外の行いではいかなる行いによっても救われるこ
とはない。」が。
 はい、帰納法にもお世話になりましたね。
 



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