「同労者」第45号(2003年7月)              目次に戻る      表紙に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (36)  −
D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳


正しい信仰

自分の信仰を四六時中チェックしている人々がいます。しかし信仰とは祝福を受ける手なので
す。私はある物乞いについてのこのような例話を聞いたことがあります。あなたが道端で何年
もの間いつも物乞いをしていた男に出会ったとします。あなたは彼に施しをしますが彼はこう言
います。「ありがとうございます。でもお金はいりません。私はもう物乞いではありませんから」
あなたは彼にその訳を尋ねます。
 「昨晩ある人が千ドル私にくれたのです」
 「なんだって。それはちゃんとしたお金なのかい」
 「私はそのお金を銀行に預けて通帳も持っています」
 「どうやってそのお金をもらえたんだい」
 「私がある紳士に施しを求めると、彼は私と話をし、その後で千ドルを取り出して私の手に渡
したのです」
 「彼が正しい(right)手でくれたとどうしてわかるんだい」
 「右(right)手でも左手でもいいじゃないですか。私がお金を手に入れたのは確かなのですか
ら」
 多くの人は自分がキリストにより頼んでいる信仰が正しいかどうかいつも考えています。しか
しはるかにより本質的なことは、正しいキリストを見ているかどうかです。
 信仰は霊の目です。完全に見えているにもかかわらず、目が正しいかどうかを調べるために
目を抉り出そうとする人がいるでしょうか。また、私の食欲を満たすのは私の味覚ではなく私が
味わっている食物なのです。ですから皆さん、ただ御言葉によって神を受け入れることが私た
ちの救いの手段なのです。真理はいくらシンプルにしてもし過ぎることはないのです。
 ある人がニューヨークに住んでいてハドソン川沿いに家を持っていました。彼の娘の一家が
冬を一緒に過ごすためにやって来ました。その冬の間にしょう紅熱が流行って、彼の小さな孫
娘が家族から隔離されて別室に入れられました。毎朝彼は仕事に行く前に孫娘のところへ「行
ってきます」を言いに行きました。ある時、その子はおじいさんの手をとって部屋の隅へ連れて
行きました。その子は一言も口をきかないでただ床を指差しました。そこには彼女が小さなクラ
ッカーで綴った「おじいちゃん。私、絵の具が欲しいの」という文字がありました。彼は何も言い
ませんでした。その日、仕事から帰ると彼は上着を掛けいつものように孫娘の部屋へ行きまし
た。その子は自分の願いが叶えられたかどうか確かめることもせずに、おじいさんを同じ部屋
の隅へ連れて行き、同じように綴った文字を見せました。「おじいちゃん。絵の具ありがとう」そ
うありました。その子はおじいさんがどんなことがあっても決して自分を喜ばせることをしそこな
うことはないことを知っていたのです。それが信仰です。
 信仰は御言葉によって神を受け入れることです。しるしを欲しがる人はいつも満ち足りない中
にいます。「神がそう言われた。信じようではないか」このようなところへ達したいものです。
(この項つづく)




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