ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。 質問の送付先は巻末にあります。 先月の質問の回答例(作成者:野澤) ――このコラムでは、このところしばらくイエス・キリストを取り上げています。私たちはイエ ス・キリストに似たものとなり、キリストの心を自分の心とし、キリストが歩まれたようにこの地上 の生涯を歩むことを求められているのですから、イエスはどのようなお方であったかを学ぶこと は、成功あるキリスト者の秘訣です。―― R.A.トーレイの「聖書の教え」に整理されている項目を引用して、イエス・キリストの品性に ついての説明を続けます。 <イエス・キリストの品性> ・・・つづき 2 父なる神に対するイエス・キリストの愛 2.1 イエスの愛の事実 (1)イエス・キリストはみ父を愛された。 「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が 知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(ヨハネ14:31) イエス・キリストが、ご自身についてこの世を知ることを望まれた一つのことは、彼がみ父を 愛されたということでした。もしイエスに、そのご一生の秘訣を尋ねたならば、「わたしは父を愛 している」とお答えになるでしょう。そしてもし、私たちがそうした彼の愛がその純潔さにおいて、 その充全さにおいて、どのようなものであるか知りたいと思うならば、ただイエス・キリストご自 身を見上げさえすれば良いのです。 2.2 み父に対するイエス・キリストの愛はいかに顕わされたか。 (1)イエス・キリストがみ父に対して顕わされた愛は、彼がみ父の戒めを守られたことによって顕 わされている。 「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの 父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネ14:21) 「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。そ れは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じで す。」(ヨハネ15:10) (註1)「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わし た方のみこころを行なうためです。」(ヨハネ6:38) イエスはみ父のご命令に従うために、天の栄光を捨てて、地上の辱めを受けることを躊躇さ れませんでした。 (註2)「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架 の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:8) イエス・キリストはみ父のみ心に従うためには、死をも厭いなさいませんでした。そのとおり、 十字架の死をさえ厭いませんでした。 (比較)「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わ たしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊 があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つ の群れ、ひとりの牧者となるのです。わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを 捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はい ません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、そ れをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ 10:15〜18) イエス・キリストの死は、最高の意味において自発的でした。ですから彼の死は、深い思慮を もって進んで行かれた決勝点ともいえるものでした。 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっ すぐ向けられ、・・」(ルカ10:51) イエスはひたすら彼が「御顔をまっすぐエルサレムに向けて」最後の旅をされた時だけでな く、最初に人のかたちを取って世においでになった時から、彼は堅くカルバリの丘にむけて進 まれたのです。その昔ユダヤ人たちがラザロの墓の傍らに立って、涙にむせびなさるイエスを 見て「ああ、なんと彼を愛しておられたことか!」(ヨハネ11:36)と言ったことがありますが、今や私 たちは十字架の傍らに立ち血の流れる主イエスのみ姿を仰いで「ああ、なんと彼(父なる神)を 愛しておられたことか!」と叫ばないではいられません。 (この章 つづく) 今月の質問 来月もイエス・キリストの品性について説明を継続します。 説明について、疑問点がありましたらお知らせ下さい。また、これらを離れた質問も歓迎致しま す。
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