「同労者」第46号(2003年8月)              目次に戻る      表紙に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (37)  −
D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳


正しい信仰(つづき)
 しかし「信仰は神からの賜物です」という人がいます。空気もそうなのです。でもあなたはそれ
を呼吸しなくてはなりません。パンもそうですがあなたはそれを食べなくてはなりません。水もそ
うです。でもあなたはそれを飲まなくてはなりません。ある種の不思議な感情を求めている人々
がいますがそれは信仰ではありません。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストにつ
いてのみことばによるのです」(ローマ10:17)。そこが信仰の根源です。不思議な感覚を伴って信
仰がそっと自分を覆うというようなことをじっと待つのではなく、神を御言葉によってとらえること
です。そして人は信じるべき何かが無ければ信じることは出来ませんから御言葉を書かれた
通りにとらえ、それを自分のものとして握り締めることです。    ヨハネ6章47、48節に「ま
ことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいの
ちのパンです」とあります。すぐそこにパンがあるのです。それを食べなさい。いわば家の中に
何千個ものパンを持っていて、同じ数の飢えた人が待っているようなものです。彼らはそこに
パンがあるという事実は認めるかも知れません。しかし彼らがそれぞれパンを食べ始めなけれ
ば彼らの飢えは満たされないのです。キリストは天のパンです。体が自然の食物で養われるよ
うにたましいはキリストによって養われなくてはなりません。

信仰の例話
 もし溺れている人が自分を助けるために投げられたロープを見たならそれを握り締めるに違
いありません。そしてそのためには彼は他のものは全て捨て去るでしょう。またもしある人が病
気なら彼は薬を飲まなくてはなりません。ただ単にそれを眺めているだけでは癒されないから
です。キリストについての知識は主を信じない限り、また主を唯一の希望として握らない限り求
道者を助けません。蛇に噛まれたイスラエル人は青銅の蛇が揚げられたことは信じたかも知
れません。しかし彼らが仰ぎ見ない限り彼らは生きなかったのです(民数記21:6〜9)。私はあ
る航路の汽船に乗れば海を渡ることが出来ると信じています。それは経験したことがあるから
です。しかし海を渡りたい他の人が私のその知識を聞いても、それに基づいて行動しないなら
その知識は助けにはなりません。ですからキリストについての知識は私達がそれに基づいて
行動しない限り助けになりません。それが主イエス・キリストを信じるということです。それは信
じることに基づいて行動することです。大西洋を渡るために汽船に乗り込むように、私達はキリ
ストをとらえ、たましいを主に委ねなければなりません。主は彼に信頼する全ての人を守ること
を約束しておられます。主イエス・キリストを信じることとはただ単に主を御言葉によってとらえ
ることなのです。




トップへ
トップへ
戻る
戻る