「同労者」第46号(2003年8月)                目次に戻る  表紙に戻る

わかふうふわかもん

 − 必 要 な 訓 練 −

仙台聖泉キリスト教会  山田 行

「人が若い時にくびきを負うことは良いことである。」(哀歌3:27)


 年を経ていくと、いろいろな問題や課題にぶち当たります。それは、一つではなく、いくつも重
なり合い、何もかもがだめになってしまうような不安にかられたり、乗り越えられないのではと、
心が沈むこともあります。もう少し強い信仰と、きちんとした判断力、実行力があればと、自分
を責めたりします。特に人間関係では今までの積み重ねた信頼関係はなんだったのか、自分
は必要とされていないのではないかなどと、むなしい気持ちでいっぱいになったりします。しか
し、そういう時に上記の御言葉が大変重要になります。
 若い時にくびきを負うとは、どういうことでしょうか?私にとってはどんな小さな仕事や、「お願
いしますね」と人と交わした約束などを、喜んで果たす事でした。人が見ていなくてもきちんと最
後までやり通すことでした。私が一番苦手なことで何度も出来ずに途中で逃げたり、投げ出し
たり、言い訳をしたり、なかなかできないものでした。しかし救いをいただき、神がいつも共にい
てくださる生活がはじまってからは、これは私に必要な、訓練であることを自覚することができ
たのです。そして、どのような状況の中でも、与えられた責任はきちんと最後まで果たせるよう
に祈ることをしました。そして、神は一つ一つ果たすことが出来る助けを下さったのです。この
ような取るに足らない私に乗り越える力と知恵をあたえてくださったのです。
 今、私はどんな困難にあっても、逃げないで立ち続ける自信がある。と言っているのではあり
ません。まだまだ恐れや不安があります。しかし若い時からの神が与えてくださる訓練を乗り
越えさせて頂いたことを思うのです。そして、神への信頼や、神の深い助けがまた必ずここに
あると信じて待ち望めるのです。問題、課題が複雑でその大きさにつぶされそうな思いになり
ます。でも逃げないで倒れないで忍耐し続ける力を与えてくださいと日々祈ります。動かない事
柄に希望をもち、待ち望むのです。私があきらめたら、逃げ出したら誰がこの重荷を荷うので
しょうか。期待してくださる神に応えていける器にならせていただきたいと思います。神と共に十
字架を荷うものにならせて頂きたいと願います。いつまで、荷ってもらうのですか?いつまで逃
げているのですか?時々自分に問うてみてください。
 どうぞ、若い方々、神に用いられる器になるには、困難な暗黒と思われる時代の中で雄々し
く重荷を荷い、教会の助けや、隣り人の助けが出来ることだと思います。共に励みましょう。



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