「同労者」第47号(2003年9月)            目次に戻る     表紙に戻る

一度は原書を読みたい本

− キリスト者の完全 −

 「その日、・・罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。」(ゼカリヤ書13:1)
潔められて善い実を結ぶこと、これが私たちキリスト者の人生最大のテーマです。
 ジョン・ウェスレーはその著書、「キリスト者の完全」の中でこう指摘しています。「私たちは、
肉体にある限り、完全な知識を持つことはない。だから判断を誤ることがある。判断を誤れば
実行行為も誤ることがある。」と。しかし、例えそれがほんの一部に過ぎなくても、正しい善い知
識を身につけるか否かは、私たちが潔められて善い実を結ぶことができるか否かを左右する
重大な問題です。私たちは学ぶことによって、多くの正しい知識を獲得できます。
 私が大学生3年生であった時、雑誌会という名前の授業がありました。それは指導教官から
英文の論文を渡され、それを著者になり代わって全員の前で発表し、質問に受け答えするとい
うものでした。それで辞書を引き引き一生懸命読み、内容を理解し、発表のための図やグラフ
を準備しました。この学課によって、その与えられた研究分野の知識について多大の恩恵を受
けたことが後になって分かった次第です。私たちがキリスト教の教えについて学ぶ時にもその
方法は、この世の学問の学びと共通している面が多くあります。
 神が潔めをジョン・ウェスレーに託されたことは論を待ちません。ですから私たちが潔めにつ
いて学びたいと考えるとき、まずウェスレーの教えていることを学んでみるのがよいのではない
でしょうか。仙台教会の教会学校成人科クラスでテキストとして読みたい本の希望を取りました
ら、その中の一冊に「キリスト者の完全」がありました。そして潔めへの飢え渇きとその正しい
知識の求めを感じました。
 本誌にそれを取り上げたいと思い、先に述べた雑誌会にならって、これを原書で挑戦したい
と考えた次第です。私は典型的な日本の英語教育の申し子というような者であって、辞書を引
きながら読むだけの英語なので、正確な翻訳は困難なのですが、たたき台として訳文を一緒
に掲載します。誤訳、より良い表現などに気づかれた方はぜひ、筆者宛てお知らせください。
内容についてのご質問があれば、雑誌会のように著者になり代わってお答えしたいと思いま
す。なお、理解できないことが起きた場合には、皆で議論し、結論は先生方に教えていただこう
と思います。
 若い方々には、毎月一行でも二行でも英文に挑戦していただきたいと思います。
なお、用語についてですが、sins、a sin は「罪」、sin、the sin は文章の流れから「罪」とした方
がよいと思われる場合を除き、大体は「罪の性質」または「原罪」としました。また新改訳聖書
にならって、神が自分を呼ばれる代名詞を「わたし」、人間その他の自分を指す代名詞には漢
字の「私(わたくし)」を当てることにしました。漢字で「私」と書くと「わたし」と読んでしまう方が多
くおりますが、神との区別のため「私」は「わたくし」と読んで頂きたいと思います。
                             ・・ 編集委員

A PLAIN ACCOUNT OF CHRISTIAN PERFECTION,
as believed and taught by the Reverend Mr. John Wesley,
from the year 1725, to the year 1777
From The Works of John Wesley
(1872 ed. by Thomas Jackson), vol. 11, 29, pp. 366-446.

1725年から1777年まで、司祭ジョン・ウェスレイ氏によって信じられ、そして教えられた
キリスト者の完全の平易な説明

ジョン ウェスレイの著作集から
(トーマス・ジャクソンの1872年版)、11巻、29号、p.366 - 446.

                                                                                      
[It is not to be understood, that Mr. Wesley's sentiments 
concerning Christian Perfection were in any measure changed 
after the year 1777.
This tract underwent several revisions and enlargements during 
his life- time; and in every successive edition the date of the 
most recent revision was specified.
The last revision appears to have been made in the year 1777; 
and since that period, this date has been generally continued 
on the title-page of the several editions of the pamphlet. -- 
EDIT.]

1.
What I purpose in the following papers is, to give a plain and 
distinct account of the steps by which I was led, during a 
course of many years, to embrace the doctrine of Christian 
perfection.
This I owe to the serious part of mankind, those who desire to 
know all "the truth as it is in Jesus." 
And these only are concerned in questions of this kind.
To these I would nakedly declare the thing as it is, 
endeavouring all along to show, from one period to another, 
both what I thought, and why I thought so.

2.
In the year 1725, being in the twenty-third year of my age, I 
met with Bishop Taylor's Rule and Exercises of Holy Living and 
Dying.
In reading several parts of this book, I was exceedingly 
affected; that part in particular which relates to purity of 
intention.
Instantly I resolved to dedicate all my life to God, all my 
thoughts, and words, and actions ; being thoroughly convinced, 
there was no medium ; but that every part of my life (not 
some only) must either be a sacrifice to God, or myself, that is, 
in effect, to the devil.


Can any serious person doubt of this, or find a medium 
between serving God and serving the devil?



3.
In the year 1726, I met with Kempis's Christian's Pattern.
The nature and extent of inward religion, the religion of the 
heart, now appeared to me in a stronger light than ever it had 
done before.
I saw, that giving even all my life to God (supposing it possible 
to do this, and go no farther would profit me nothing, unless I 
gave my heart, yea, all my heart,to him.

I saw, that "simplicity of intention, and purity of affection," one 
design in all we speak or do, and one desire ruling all our 
tempers, are indeed "the wings of the soul," without which she 
can never ascend to the mount of God.


4.
A year or two after, Mr. Law's Christian Perfection and 
Serious Call were put into my hands.
These convinced me, more than ever, of the absolute 
impossibility of being half a Christian; and I determined, through 
his grace, (the absolute necessity of which I was deeply 
sensible of;) to be all-devoted to God, to give him all my soul, 
my body, and my substance.
Will any considerate man say, that this is carrying matter too 
far?
or that anything less is due to Him who has given himself for 
us, than to give him ourselves, all we have, and all we are?



                                                                                    
[キリスト者の完全に関するウェスレイ氏の意見が、1777年以
後に変更されたとされることは、いかなる尺度からみても理解し
難い。
 この小冊子は彼の生涯に何版も発行、増補された。そしてす
べての有効な改版には、最新版の日付が付された。


最後の改版は1777年になされたものと思われる。そしてそれ
以降この日付が、そのパンフレットの数版の表題ページに、変
更されること無く付され続けている。
−編者]


1.
私が以下の論文中に意図することは、長年に渡る過程を経て
私がキリスト者の完全の教理を抱くように導かれたステップに
ついて、平易で明確な説明を提供することである。
「イエスにあるとおりの真理」のすべてを知ることを望んでいる
真剣な人々によって、私はこれを促された。
そして彼らだけがこの種の問題に関心をもっているのである。

彼らに対して、ある時期から次の時期に進むにつれて私が何を
考えそしてなぜそう考えたか、その両方を全部示そうと努め、そ
れがそうであった通りに赤裸々に述べようと私は思っている。

2.
1725年、私が23歳であった年に、私はテイラー主教の「神聖
な生と死に関する宗規と実践」に出会った。


この本の数個所、特に意図の純潔に関する部分を読んでいる
うちに、私は非常な感銘を受けた。


直ちに私は、私のすべての考え、言葉、行動、そして私の人生
のすべてを神に捧げる決意をした。私が完全に理解したこと
は、中間は無いということであった。つまり私の生活のすべて
(いくらかのみではなく)を神に捧げるか、あるいは私自身に捧
げるか、それは結果として悪魔に捧げることである、しかないと
いうことであった。
真面目な人であるなら誰であれ、これを疑いあるいは神に仕え
ることと悪魔に仕えることの中間に生きることを見出せるであろ
うか?

3. 
1726年に、私はケンピスのキリスト者の模範に出会った。
内なる宗教、心の宗教というものが、その性質と程度におい
て、今やこれまで私が持っていたよりも強い光をもって私に明ら
かにされた。
私は、たとえ私の生涯全部を神に捧げても(仮にこれを行うこと
が可能であるとして)、私が神に私の心、真実に私の心のすべ
てを捧げなかったならば、もはや何の益にもならないということ
を理解した。
私は、「単一な意図と純粋な愛情」は、私たちが話したり行った
りすることのただ一つのひな形、かつ私たちのすべての情愛を
支配するただひとつの願望であり、それこそ正にそれなしには
神の山に登ることができない「魂の翼」であると分かった。

4. 
1、2年後に、私はロウ氏のキリスト者の完全と厳粛な召命の
二書を入手した。
これらはこれまでに勝って、私に半分だけキリスト者であること
は絶対にありえないことを確信させた。そして私は神の恵みに
よって(私はそれが私にとって絶対に必要であることを悟ってい
た。)私のすべてをすなわち私の魂と体と全存在とを、神に献げ
ることを決意した。
思慮深い人であるなら、このことをやり過ぎだと言えるであろう
か?あるいは、私たちのためにご自身をお与えになられた方に
対する負い目が、私たち自身つまり私たちの持ちものすべてと
私たちの全存在を捧げること以下であってよいであろうか?
(つづく)



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