サムエル記の前にルツ記がある。ユダ部族出身のダビデの系図に重要な人物として聖書は ルツという女性を登場させている。ご存知のように彼女はモアブ人であった。エリメレクというユ ダヤ人の一家が、飢饉の為移り住んだモアブの地で、彼の息子マフロンに嫁いで来た異邦の 娘である。エリメレクの死、彼の二人の息子の死で、妻のナオミは残された嫁のルツを連れて もともといたユダの地ベツレヘムに帰った。このモアブの女ルツにベツレヘムの有力者ボアズ によって生まれた子がオベデである。彼はダビデの父エッサイの父である。 ユダヤの律法には買戻しと言うちょっと説明するには難しい決まりがある。簡単に言うと出エ ジプトしたイスラエルがカナンの地を相続した時、それは神がイスラエル民族にそれぞれ部族 ごとに分け与え、それは神のもので民は土地を主から借り受ける。それゆえ持ち主(主からの 借主)の権利は次の代へと受け継がれて行く。やむなく金銭で土地が売られた場合、近親者 がそれを買い戻さなければならなかった。そのような近親者がいなくても時が来ると元の持ち 主に返されるのである(レビ記25:25〜)。ゆえに土地の所有者を絶やさないために不幸にも持 ち主が跡取りを残さず早く亡くなった場合、その兄弟や親戚が彼の妻をめとり次を生み出して いくという決まりである。(申命記25・5〜10)。 ユダのベツレヘムにあったエリメレクの土地を受け継ぐ二人の息子もモアブの地で亡くなって いるのでルツがその責任を負ったのである。彼女の姑ナオミはその権利を行使するための相 手としてボアズに白羽の矢を立てた。権利の行使の仕方がルツ記の3章に記されている。指 示を出したのはナオミ。それを行ったのはルツである。目指しているのは買戻しによってこの2 人の未亡人の失われた将来を切り開くことである。 ナオミは最初、全てのものをモアブの地で失い自分の生涯を憂いながら単身、生まれ故郷に 帰るつもりだった。しかし、嫁のルツが図らずも同行したため残りの人生を静かに一人で終わ ることが出来なくなった。この嫁の将来を切り開くという仕事ができてしまったのである。ナオミ はルツに言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげな ければならないのではないでしょうか。…あのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょ うど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って、油 を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。…あの方が寝るとき、その寝る所を見届 けてからはいって行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべき ことを教えてくれましょう。」(ルツ記3・1〜4)。ナオミの作戦は直接、寝床に入れと言うことだっ た。普通に考えるとこれはそれを命ぜられたルツにとって大変厳しいことである。これはリスク の大きい作戦である。もてあそばれるかもしれない。はしたない女と好意を持ってくれたボアズ に思われてしまうかもしれない。そうなれば買戻しなどと言う望みも消えてしまうかもしれない。 同様にリスクだけではなく彼女にとっては大切な自己を犠牲にしなければならなかった。それ は聖書に直接書いていないが彼女が着た晴れ着はきっと亡くなった夫マフロンに嫁いだ時、仕 立てたものかもしれない。愛された思い出を身にまといながらそれをささげて彼女は今隣りに いる愛する姑ナオミのために否、愛することを告白した神に対する真実を示すためにこのこと を行うと決心した。「私におっしゃることはみないたします。」にその心が浮き出るようである。こ の信仰の前にさすがの有力者ボアズも降参し栄誉を与えざるをえなかったのである。彼はイス ラエルの神、主を愛しその隣を愛した異邦の女ルツをすばらしい女性として迎え、買戻しのた めに支払わなければならない大きい犠牲よりも遥に高価なものとしたのである。ナオミの作戦 は、綿密に計画されたと言うよりも信仰と愛によって神が生きて働いてくださることを明らかに しようとしたのである。己の生涯の不幸を後悔しあきらめていたナオミに対して神はルツという 隣人を与えそれを買い戻してくださったのである。 サムエル記のお話をこれに照らし合わせると、ダビデの生涯の不幸を贖い戻すために神が用 いられたのはフシャイであった。彼はダビデを、敵対する息子アブシャロムとその補佐官アヒト フェルの手から救った。聖言を見てみよう。「ダビデの友アルキ人フシャイがアブシャロムのと ころに来たとき、フシャイはアブシャロムに言った。『王さま。ばんざい。王さま。ばんざい。』」 (サムエル記U16:16)この欺きに対して「アブシャロムはフシャイに言った。『これが、あなたの友 への忠誠のあらわれなのか。なぜ、あなたは、あなたの友といっしょに行かなかったのか。』」 (サムエル記U16:17)と変わり身の早さにあきれながらバカにした。当然、疑いもあるが続けて 「フシャイはアブシャロムに答えた。『いいえ、主と、この民、イスラエルのすべての人々とが選 んだ方に私はつき、その方といっしょにいたいのです。また、私はだれに仕えるべきでしょう。 私の友の子に仕えるべきではありませんか。私はあなたの父上に仕えたように、あなたにもお 仕えいたします。』」(サムエル記U16:18、19)と言ったのでやはりちょっと甘く本当の厳しさと戦い を知らない王子アブシャロムは「アヒトフェルに言った。『あなたがたは相談して、われわれはど うしたらよいか、意見を述べなさい。』」(サムエル記U16:20)フシャイと同列にされたアヒトフェル はきっとカチンと来ただろうがフシャイの知恵と力を知っていた昔の同僚とすると、仮にたくらみ があったとしても簡単に防ぐことができると考えたに違いない。それは、神に生きる者、信仰に 生きる者の姿が、本来それに近いものを持ちながらしかし、自らの知恵と力によって世を渡っ てきた強者には愚かしく、そして無力から生じる神頼み位にしか思えないのである。信仰者の それは、確かに中途半端であると世に勝利することも自分を生かすことも、まして愛するもの のために命を張ることなどとうてい及ばない。しかし、信仰に真摯に生き、矛盾と困難の中でも その姿勢を変えずに一心に生きてきた者の底力は計り知れない。なぜ彼がダビデの友と呼ば れていたかを、なぜその称号を与えられていたのかをアヒトフェルは思い図らなかった。アヒト フェルにとって友という称号に何の価値も見出せなかったのである。この時点でダビデとアブシ ャロムとの戦いの勝敗が付いている。私達は聖書でこの後のところを読んで分かっているが実 際の信仰生活で私達の価値観は問われているのである。本当の強者とは誰か。神は単にリス クを負えといっているのではない。信じてがむしゃらに進めといっているのでもない。しかし、ど うしても戦わなければならない場面でお茶を濁してはいけないと言っている。福音書で主は言 われる。「わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そ うしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。小さい 事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実で す。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富 を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、 あなたがたのものを持たせるでしょう。」(ルカ16:9〜12)
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