ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。 質問の送付先は巻末にあります。 先月の質問の回答例(作成者:野澤) R.A.トーレイの「聖書の教え」に整理されている項目を引用して、イエス・キリストの品性につ いての説明を続けます。 <イエス・キリストの品性> ・・・つづき 2 父なる神に対するイエス・キリストの愛 2.2 み父に対するイエス・キリストの愛はいかに顕わされたか。(つづき) (2)み父に対するイエス・キリストの愛は、彼がみ父のみことばを忠実に、心から守り従われた ことによって明らかである。 「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたし がこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わ たしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55) 「神のみことばを守る」ということは、「神のみことばに従う」ということ以上の意義を含んでい ます。なぜならばあ、人はその戒めに真心からの愛がなくても、それに従うということがありえ ます。私たちは何かが貴重な宝であるということが分かったならば、それを守るものです。イエ スは実に、この点を実行されたのです。み父のみことばは、イエスに取っては、実に貴い宝でし た。彼はそれを、他の人々があたかも金や宝石を大切にするように守られられました。み父の みことばを尊重するこの態度こそは、み父に対するイエスの愛の特別な徴でした。世の破壊的 な批評家は、口では自分は神を愛しているといっていますが、しかし実際においては彼らの神 を愛する心は実に薄弱なのです。ですから、時には彼らのもとに詭弁家がやってきて、いかに も合理的らしい聖書の批評ををすると、彼らは軽率にもたたちまち貴いみことばに対する彼ら の信仰を変えるのです。 (3)イエス・キリストのみ父に対する愛は、み父の御意(みこころ)に対し揺らぐことのない服従 をなされたことによって知られる。それは彼の魂に耐え難いほどの苦悶を要求するものである ことさえあった。 「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますなら ば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの みこころのように、なさってください。』・・イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わ が父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってくださ い。』」(マタイ26:39、42) (4)み父に対するイエス・キリストの愛は、彼が積極的にみ父の御意をなすことを喜ばれたこと によっても明らかである。その間の関係は地上における父の御心が、イエスご自身の犠牲的 死であったということで示されている。 「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにありま す。」(詩篇40:8) (5)み父に対するイエス・キリストの愛は、彼が常にみ父の喜びなさることを行ったことによって 明らかである。 「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。 わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」(ヨハネ8:29) (6)み父に対するイエス・キリストの愛は、彼が父の御心を求めなさったことによって明らかであ る。 「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、 わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこ ころを求めるからです。」(ヨハネ5:30) み父の御意を成し遂げるということは、イエスが追求された唯一の目的でした。他の人々が 金銀や快楽や名誉又は自己の意志の成就を熱心に追求しているように、イエスは父の御意を 成し遂げることを追求されたのです。 (7)み父に対するイエス・キリストの愛は、彼がみ父のあかしと栄光とのみを求め、それを受け 入れたことによって明らかである。 「わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そ のことを言うのです。・・わたしは人からの栄誉は受けません。」(ヨハネ5:34、41) (この章 つづく) 今月の質問 来月もイエス・キリストの品性について説明を継続します。 説明について、疑問点がありましたらお知らせ下さい。また、これらを離れた質問も歓迎致しま す。
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