「同労者」第47号(2003年9月)            目次に戻る     表紙に戻る

聖書研究
仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1982.7.20 から
救いに関する聖書の教え (1)

仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄


「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪
から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)


 1.はじめに
 人間の罪は二重の構造になっています。なわち、「罪の行為」と「罪の性質」です。
これは木と実との関係です。良い木は良い実を実らせ悪い木は悪い実を実らせます。(マタイ7:
16〜19を引用)人間がすべて悪しき木となって、悲しむべき状態にあることを前回の聖書研究
会(1982.6.23、「人間の窮状」、「キリスト教信仰の探求」をテキストに、仙台教会にて)で学びま
した。人間は罪の性質を持った木であるため、罪の行為という実を実らせるのです。

 神は人間が罪の行為を行うと審判されます。(ローマ2:6〜8参照)神が人間を処罰されるのは、
人間各自の"主権的な行為"に対してであって、決して"先祖から受けついだ罪の性質"に対し
てではありません。
「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負
いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル書18:20)

[<参考> (エゼキエル書18:1〜20・・聖書研究会の時に配布した予稿の欄外に、引用聖句と短
い説明のみ記入し、口頭で説明した内容)ユダヤ人は、義を行うものは現世において豊かな報
いを得、悪を行う者は現世において神の裁きとしての悪い報いを刈り取ると考え過ぎました。
同じ考え方はヨブ記の議論にも現わされています。
 更に「律法を守る者には恵みを施して千代に至る」し「律法を守らない者の子孫は、長い世代
にわたって刈り取りをする」と考えました。ですから自分らの陥っているこの世における悪い状
況について「父が酸いぶどうを食べたので子供の歯が浮く。」といっていることがエゼキエル書
やエレミヤ書に登場するわけです。それは、シロアムの池で目を洗って癒された盲人の記事の
ところでも議論されており、イエスの時代まで変わらなかったことが分かります。
 しかし神はエゼキエル書の中でその考えをきっぱり否定しておられます。罪を行った本人だ
けが裁かれるのです。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父
の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵み
を千代にまで施すからである。」(出エジプト記20:5〜6)ということは、子孫が次々と神を信じる上
において悪い環境の中で育ったり、良い環境の中で育ち訓練されることを通して受け継がれる
面が多いのです。
 私たちの生きる新約の時代にあっては、さらにその報いや裁きは決して現世の繁栄とかでは
ありません。それはまず第一に霊の事柄に属します。そして、私たちの魂が確かなものとされ
た結果の反映として、この世においても恵みに相応しく生きることができることを約束されてい
るのです。(マタイ6:33参照)]

 神が人間の為に備えられた救いも二重です。即ち「罪の行為に対する救い」と「罪の性質に
対する救い」です。

 今回取り扱おうとしている主題は「罪の行為に対する救い」の部分であって、罪の行為の結
果、身に招いた審判、処罰からの救い即ち「赦し」と罪の行為からの解放即ち「新生」を含みま
す。 「赦し」は「義認」とも「称義」とも呼ばれます。
 ここで"罪の行為からの解放"と表現しましたが、これは「罪の性質(原罪)に対する救い」を
意味するものではありません。しかし、新生は次のテーマである「罪の性質からの救い」への出
発点であって、これらは切り離して考えられるものではなく、それにつながっていく問題です。

2.何から救われるのか
 人は様々な問題から救い出されたいという状況に陥ることがあります。自分の罪以外の事柄
について、それが病気であったり、生活苦であったり、対人関係など、あるいは他の人の罪の
ために、例えば夫が酒乱で暴力を振るうとかいった、様々な苦痛があるために、それから救わ
れたいということがあるかも知れません。しかしそれらから救われる、つまりその問題が解決し
たとしても、キリストの救いとは別のことです。人は"自分の"罪から救われなければならない
のです。

 2.1 罪とは何か
 では救われなければならない罪とは何でしょうか。
 聖書に神が「罪」とされている内容がどのようなものと取り扱われているか考えて見ますと、
それは「あなたは罪を犯してはならない。」と命令される事柄です。命令しうる内容の事柄は、
人間の「意志」に関わり、人間が意志を働かせると神の命令に応えることができることなので
す。
「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」(ローマ2:6・・以下15
節まで参照)
 罪とは何かということについて、ジョン・ウェスレイの定義を引用しておきます。「罪とは、知ら
れている律法に対する意志的な違反である。」
 「知られている律法に対する意志的な違反」の内容をもう少し分類し、聖書の記述を取り上げ
てみます。


(1)不敬虔な行為
「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から
啓示されているからです。」(ローマ1:18)
「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみな
されるのです。」(ローマ4:5)
 はじめの引用聖句は神が裁かれる罪が不敬虔、後の引用聖句は神が義とされる対象であ
る罪が不敬虔であることによって不敬虔な行いが罪であることが示されています。

(2)不信仰な行為
「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ16:9)
「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、・・」(民数記5:6)
「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが主
への反逆や、不信の罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでくださ
い。」(ヨシュア記22:22)
「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。」(歴代誌T10:13)
 アブラハムの信仰で示されるように、神が喜ばれるのは信仰でちょうどその反対が不信仰の
罪です。

(3)不従順な行為
「ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた・・」(ローマ5:19)
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望
むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エ
ペソ2:3)
「すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、・・」(ヘブル2:2)
 不信仰の罪と不従順の罪は聖書中に枚挙のいとまがないほどです。不敬虔と共にこれらは
一体となって罪人の行為に現われます。

(4)不法な行為
「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法
をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:23)
「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」(ヨ
ハネT3:4)
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」
(ローマ4:7)
 これらのみことばを整理して見ると、不法とは律法に故意に逆らうことを行う罪であることが
分かります。
(以下次号)





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