「同労者」第48号(2003年10月)                目次に戻る    表紙に戻る

巻頭言
− 希  望 − 
仙台聖泉キリスト教会   石井 明子

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるの
です。」(ピリピ2:13)

 今年のサマーキャンプは、「中高年の信仰」のクラスに参加しました。その中で山本光明先生
が、私たちに「教会の中でこれから若い者たちが救いを受けていけるように、自分が出来る事
をして下さい。」と語っておられたことが心に残りました。
 救いの恵みを頂いて28年になりますが、ここまで神の豊かな守りと助けがあったことを感謝
します。クリスチャン二世として生まれ、神様の存在は認めていましたが、世の中の楽しみを求
め中学2年生の時、教会を離れてしまいました。その後、両親の説得に反発する反面、どうに
も虚しい日々を過ごしていました。神様を信頼し朝夕子供達の名前をあげて祈る声を聞き、そ
の虚しい気持ちから抜け出したい一心で、高校2年生の時、教会に戻って来ました。教会生活
の中で心に温かいものを感じながら、なかなか受け入れることが出来ませんでしたが、教会の
先生や多くの方が祈り、声をかけてくださり、また神様が私をどれほど愛して待っておられたか
を示され、21才の時、罪を悔い改め、両親の前に謝ることが出来ました。
 今、教会学校成人科(野澤兄担当)クラスで、アンドリュー・マーレーの「まことのぶどうの木」
をテキストとして学んでいます。その中で「私たちがキリストの体の一部分としてクリスチャンに
なることを許されたのは、神が私たちにその救いのみわざを実行させるためです。神が私たち
を枝にしたただ一つの目的は、私たちを通して人に救いをもたらす為なのです。・・そして日々
の第一目的は、キリストが私たちの中でその目的を実行するようにと願っておられるのを知る
事です。」と述べられているところに目が止まりました。
 一人一人がぶどうの幹であられるキリストの枝として生かされていると思う時、自らの信仰の
みで終わることなく、与えられた子供達を含め、やがて教会を担う次の世代が善き実を結ぶこ
とができるように、心を用いさせて頂きたいと思います。
 また、教会から離れている魂の為に祈ることです。私もそうであったように、今も光の中にあ
り、必ず神様が捉えて下さることを信じるものです。




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