第4章 助言 「彼はいたんだ葦を折ることもなく」(イザヤ書42:3、マタイ12:20) 救いを捜し求めている人々にとって他人の経験に頼ることは危険です。多くの人が祖父や祖 母の体験の繰り返しを期待しています。私の友人に野原で回心した人がいますが、彼は町中 の人が草原へ行って回心すべきだと思っています。また、別の人は橋の下で回心したので、ど んな求道者も橋の下へ行くなら主を見出すだろうと考えているのです。しかし神を求める人々 にとって最上の道は神の御言葉に正しく歩むことです。もしこの世のある人々が神の御言葉を とても尊いとするなら、その人々はどうしたら救われるかを捜し求めている人々なのです。 様々な言い訳 例えば、ある人は「私は弱いのです」と言うでしょう。その人にはローマ人への手紙5章6節を 開かせなさい。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために 死んでくださいました」とあります。私たちが弱いからキリストが必要なのです。主は弱い者に強 さを与えるために来られたのです。 また、「私には何も見えません」と言う人もいるでしょう。キリストは言われます。「わたしは、世 の光です」(ヨハネ8:12)。主は光を与えるためだけでなく「盲人の目を開」(イザヤ書42:7)くために 来られたのです。 また別の人は「私は人が一度に全く救われることが出来るとは思いません」と言うでしょう。そ のような考えを持っている人がある晩求道者の部屋にいました。そして私はローマ人への手紙 6章23節で彼の注意を引きました。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」あなたがプレゼントを受け取るのにどのく らいの時間がかかるでしょうか。そこにはあなたがそれを持っていない瞬間と次にあなたがそ れを持っている瞬間とがあるに違いありません。すなわちそれが別の人のものである瞬間が あり、次の瞬間にはあなたのものなのです。ですから永遠のいのちを手に入れるのに何ヶ月も 必要とはしないのです。しかしながら、時にはからし種のようにはじめは非常に小さいかも知れ ません。ある人々は朝日のように非常にゆっくりと回心したので、夜明けがいつ始まったかを 見分けるのは不可能でしょう。しかし別の人にとっては流れ星が輝くようなもので、真理は彼ら に突然現れるのです。 私はいつ私が回心したかを証明するために労しようとは思いません。私にとって重要なこと は私が現に救われていることを知っているということです。 ある子供がとても注意深く訓練され続けて来たので、いつ新生が始まったのかわからないと いうこともあるかも知れません。しかし変化が起こった瞬間が必ずあるのです。そしてそのとき 彼は神の性質にあずかる者とされたのです。
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