「同労者」第49号(2003年11月)                目次に戻る  表紙に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記 (その29) −

仙台聖泉キリスト教会  牧師 山本 嘉納

 今年もクリスマスまでもう少しというところである。生まれた時から教会で育った者だがこのイ
ベントに対する当時のワクワク感は忘れられない。今は、12月に入るとクリスマスのメッセー
ジを語らなくてはならず、かつそれがマンネリにならない新しいものでなければならないので苦
闘している。仙台教会も私の世代は子供も多く、教会学校はにぎわっていた。クリスマス祝会
の劇も盛り上がった。牧師の子だったが主役をやらせてもらった記憶がない。私にとっては、
それはそれで別に大きな問題ではなかったがしかし、姉妹たちにとっては重大な事柄だったよ
うである。クリスマスの主役は本来キリストだが、生まれたばかりの赤子では演じようがない。
然るにマリヤがその座にあった。「美しい乙女マリヤ」の肩書きは、演じるものにも贈られか
つ、結婚したての若いカップルとなれば「おままごと」全盛の時代を生きた彼女たちにとっては
憧れの的だったようである。心ひそかに今年のマリヤは誰だろうと教会学校の時間内外を問
わず、担当の先生への間接的アッピールは続けられたようである。実際、演劇だけの世界で
はなく全てにおいて物事には主役と脇役がいる。しかし、それぞれの重要さに優劣はない。
サムエル記の主役は神を除けばイスラエルの王ダビデである。彼の全生涯を取り上げて書か
れたといっても過言ではないサムエル前後書は、同時にある部分だけ取り上げられた脇役た
ちによって形作られている。サウル王や、サムエルもダビデを中心とした物語の序章を盛り上
げて、真の信仰者になる主人公を浮き彫りにした。バテ・シェバの登場は突然であり、多くの疑
問を残しながらしかし、同時にダビデも私たちと同じ人間であることを強く理解させた。ナタンも
サムエルの後を継いだ優秀な預言者として登場する。苦悩の時代をダビデと生きたわけでは
なかったがその影響力は辛苦を共にした者たち以上に彼の晩年、死後にまで及んだ。ダビデ
の子供たちは彼の事業と信仰の大きさの前に力足らずであったが神はソロモンをおこし備え
て下さった。選びにもれた子供たちの存在の意義を考えると自らの信仰の高を問われている
ような思いになる。現実の問題としても子を持つ身として悩まずにはいられない。
今回は脇役中の脇役、ダビデ軍の将軍を生涯守り通したヨアブにスポットを当てる。真に彼は
何者だったのかを見つめると主役ダビデの演じた信仰者の姿が如実に現される。
『王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに
扱ってくれ。」』(サムエル記U18:5)ダビデは人生最大のピンチを親友フシャイによって回避し、
形成は彼の優位に傾いた。知将アヒトフェル亡き後のアブシャロム軍は既に脅威ではなかっ
た。数的には今だ圧倒的に劣勢であったが、長年戦い続けてきたダビデにはその実、そして
結果が見えていた。確信にも似た前記の預言的命令は部下の将軍たちには充分すぎる激励
となった。聖書はダビデ軍の圧倒的勝利とアブシャロムの最後を記している。命ぜられ、加え
て「私に免じて」とお願いされたにもかかわらず長年、彼と辛苦を共にしてきた将軍ヨアブが直
接アブシャロムに手を下した。(同18:14〜15)「ヨアブは、…手に三本の槍を取り、まだ樫の木
の真中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通した。ヨアブの道具持ちの
十人の若者たちも、アブシャロムを取り巻いて彼を打ち殺した。」最初に樫の木に引っ掛かっ
たアブシャロムを見つけた男は剣を抜かなかった。なぜ放置したのかというヨアブの言葉に男
は「たとい、私の手に銀千枚をいただいても、王のお子さまに手は下せません。王は私たちの
聞いているところで、あなたとアビシャイとイタイとに、『若者アブシャロムに手を出すな。』と言
って、お命じになっているからです。」と言い返した。王の命令に背く度胸や人としての真実が
あるかという問題が取り上げられやすいが、ここにはヨアブの強い意志によって行われたアブ
シャロムへの行為が記されている。戦勝報告をダビデに告げたいという家来に対してヨアブは
「わが子よ。なぜ、あなたは走って行きたいのか。知らせに対して、何のほうびも得られないの
に。」(同18:22)と言った。事実「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王さまに
手向かった者どもを、引き渡してくださいました。」と報告すると「若者アブシャロムは無事か。」
とダビデは勝利よりもアブシャロムの現状を問うたのである。悲報は告げられ取り乱すダビデ
がいた。そこまでは予想できなかったようだがヨアブはダビデの心を知りつつ王子アブシャロム
に手を下したのである。
 ヨアブという人物は、ダビデの分身のようにその初めの頃から色々な場面で活躍した。ダビ
デがまだサウル王の部下で武将として戦っていた時代、ヨアブはダビデの下ではあったが同僚
として現場にいたのだろう。ダビデがサウルに追われて流浪している時代には直接、聖書に名
前は出てこない。ダビデがいよいよ王になろうとした時、彼は自らを以前のサウル時代のダビ
デのように王に変わって戦う者とした。将軍という肩書きだがダビデがサウル亡き後、ヘブロン
でユダの王になったと同時位に彼に与えられたようである。ダビデは神に油注がれイスラエル
の王になるため、又王国を確立するために戦った。責任を果たすための道程として戦いの人
となった。一方、ヨアブは戦うことしか知らないという人物である。勿論、軍を率いる能力は腕っ
節が強いとか剣術に長けていると云った肉体的なことだけではすまない。それ以上に戦略、戦
術、機知や勘といったものが重要である。加えて、イスラエルは神の王国であり、宗教が戦い
に占める割合は大きかったのでその点においてもある程度の能力を必要とした。その後の彼
の動きの中に政治に加わり国を動かす働きに進出しようとした節がないわけではないが、やは
り自らの得意分野ではないことに気が付いていたようである。バテ・シェバ事件の際、彼はダビ
デに代わって彼女の夫、ウリヤを戦場で敵の手を借りて殺した。ダビデの悪しき業の片棒を担
いだが同時にそれはダビデの弱みを握ることであった。ダビデがそれをそのままにしておけば
それを利用して彼の地位も安泰だが、悔い改めて立ち返ったダビデに対してヨアブの立場は
複雑である。同時に平和の時代と王室が乱れる事態の中でダビデ同様ヨアブも人望を失って
いった。アブシャロムがイスラエルの心を盗んでダビデに向かった時、ヨアブはイスラエルの将
軍とはなれずダビデと一緒に落ち延びたのである。突然のクーデターで彼の本隊と連絡が取
れなかったというよりは、彼には配下の軍がなかったようである。なぜそうなったかは紙面が足
らないので次回に譲るが、とにかく彼はダビデの影の部分としてダビデと同じように苦悩し続け
たのである。アブシャロムに手を下し、自らの苦悩に終止符を打とうとした姿は、心から悔い改
めて出直す信仰、潔く非を認めて御手に陥る術を知らない人間の悲しさを見る。与えられた生
涯を与えて下さった神にお返しすることは信仰者にとって美しく高価なものである。しかし、自ら
の力で伸し上り自らの能力により頼んで勝ち取った地位や名誉を簡単に返上できないのは悲
しい性質(さが)である。ダビデとヨアブのように年齢と共に私達もそんな自らと友人とに出会う。
長く共に生きた者のあてつけとしての仕打ちを受けなければならない信仰者ダビデの悲しみを
見る。息子を失った悲しみ以上にこの仕打ちは彼の心を引き裂いたことだろう。



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