「同労者」第49号(2003年11月)                  目次に戻る    表紙に戻る

論説
 ― 学ぶことができるものでありつづけよう ―


 「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を
呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(イザヤ50:4)

  信仰の年限が進むにつれて、あるいは教会の働きに実績ができるにつれて、またあるいは
この世の仕事などの働きに地位ができてきたりした時に、自然とおきて来やすい問題は、誰か
他の人から学ぶことができなくなることです。
 いろいろ原因があることでしょうが、その中で最も重要な要因の一つとして、語られていること
が学びの対象とならず、語っている人、あるいはその内容に評価点数をつけている姿勢をとる
ようになることがあげられるでしょう。
 本来、どんな人であってもその人が遭遇している事柄に対して取り組んでいる信仰の姿に学
ぶ点が生じてきます。時には必要な知識や、本来向かわなければならない方向からずれてい
ることが分かり、あの方の働きは、野球にたとえれば、フィルダーズチョイス(打球をとった野手
が、1塁に投げればアウトに出来るのに、他の塁の選手をアウトにしようと、間に合わない塁に
ボールを投げること)になってしまうなあ、と思わせられることもありますが、その熱心、労苦を
厭わず隣人である滅び行く魂への愛を示す姿に教えられるもの多さを覚える場合もあります。
 「同労者」は、聖泉連合に所属する信徒たちが、お互いに学びあうことを目指したものです。
お互いに学びあうことによって、フィルダーズチョイスをやっている自分に気づき、自ら改める
努力をして、効果のある信仰の働きがができる者たちとならせて頂きたいと願っています。
 あの人はエラーばかりしている・・と他の人の評点だけしていては、神の前に立つとき、自ら
は実を結んでいなかったことを知って悔やむことになるでしょう。
 もう一度問いたいと思います。ひとりひとり、"自分は学ぶことができているだろうか?"、と自
問自答して見ようではありませんか。
自分は、偉くなってしまっていないだろうか?
自分は、他の人のプレーを評論をするだけで、自分自身はプレーしない人になっていないだろ
うか?
自分は、どれだけの神経験をしているだろうか?
自分は、聖書についてどれだけのことを知っているだろうか?自分の人生に神のことばはどれ
だけ生き働いただろうか?
自分は、どれだけイエス・キリストの救いに与っているだろうか?救いに生きているだろうか?
潔めに生きているだろうか?
「我聖なれば、汝らも聖なるべし」と神は言われましたが、私は聖であるだろうか?
 不足を覚える方々、お互いに学びあおうではありませんか。


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