「同労者」第50号(2003年12月)                  目次に戻る    表紙に戻る

論説
 ― クリスマスの礼拝 ―


 「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともに
あり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄
せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(イザヤ40:10〜11)


 クリスマスが来る度に、亡くなった石井清兄が仙台教会の祝会で、「靴屋のマルチン」という
紙芝居をしておられたのを思い出します。トスルトイ原作のこの童話は、今も世界中で読まれ
ていることでしょう。
――独り者の老人、靴屋のマルチンは、朝のお祈りの際に、「今日あなたのところに行くよ。」
と神様に言われました。その日彼の助けを要する三人の貧しい人々が彼のところにきました。
彼は彼らに助けの手をのべることが出来ました。夜になって、神は彼にこういわれました。「今
日あなたのところに行ったよ。」――
 ユダヤ人の期待した救い主は、「力をもって来られる」お方であったことでしょう。しかし、やっ
て来られたお方は、「布にくるまって、飼葉おけに寝ておられるみどりご」としてでした。宣教の
仕事をはじめられても、「盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つ
んぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられ」(ルカ7:22)ましたが、力
をもってローマから独立した王国をうち立てるようなものではありませんでした。
 いま私たちが通常目にしているキリスト教は、「貧しい者に福音が宣べ伝えられ」て「イエスが
神の子キリストであることを・・信じて、イエスの御名によっていのちを得る」(ヨハネ20:31)というも
のです。もちろん「盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの
人が聞こえ、死人が生き返る」働きが失せたわけではないでしょうが、その賜物を頂いた人は
ごく少数であって、その人に簡単に出会うことが出来ません。
 けれども、イエスのいのちを与えられた者たちに神が働いて下さり、その人生を整えてくださ
ることを数多く見ています。御使いが羊飼いたちに告げて言った「この民全体のためのすばら
しい喜び」(ルカ2:10)は、イエスを信じて救われた人々の中に成就しています。
 イエスに人生を整えて頂いたものたちのなすべきことは、真の礼拝です。それは神に近づ
き、神もまた近づいてくださることの中にあります。神の居られないところで礼拝の形式をとって
みても虚しいものであることは言うまでもありません。
 福音を要する、人生を整えられていない人々、弱い人々、貧しい人々のために労するなら
ば、神はその人々と共におられるため、神に近づくことが出来るでしょう。
 今年もクリスマスに当たり、クリスマスに相応しい真の礼拝を、ささげさせて頂きたいもので
す。その時神は真の羊飼いとして私たちを導いて下さることでしょう。
 


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