「同労者」第51号(2004年1月)                目次に戻る    表紙に戻る

巻頭言
− 私の嗣業の地 − 
仙台聖泉キリスト教会   石井 矗

「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この
足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。・・・・私の心が苦しみ、私の内なる思い
が突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は
絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなた
は、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほか
に、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この
身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。それ
ゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅
ぼされます。しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を
私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」(詩篇73:1〜28)


 新しい年を迎えますが、私たちの生かされている現代社会は、混乱し、先の見えない、暗く、
どこに希望を見つけて行けばいいのか分からないような時代になっているように思います。そ
の中で私も世の波に翻弄され、何とか流されてしまわないように、踏ん張っていますが、問題
にぶつかるごとに一喜一憂し心は休まることがありません。
 救いの恵みにあずかり、クリスチャンとなつてもう三十年以上になりますが、どれほどの信仰
の練達者になつたでしょうか。相変わらず世の煩いに、振り回され,すべて結果オーライの方
策を取り、いわゆる世の多くの宗教が陥っているご利益宗教の範囲を超えないものになってし
まっているのではないかと反省させられます。
 先日のクリスマス礼拝の説教のなかで語られたことは、私たちを救うためにこられた救い主
イエスキリストのご誕生を、一番最初に知らされたのは、野宿して羊を飼っていた貧しい羊飼い
たちであったこと、そして救い主イエス・キリストは力をもった王としてこられたのではなく、人の
子としてしかもはじめは、弱く、小さな幼な子の形をもってこの地上にこられたということでした。
 その説教を聞いて、もう一度自分自身の弱さを知りました。そして分かったことは、自分自身
のためにだけ生きていて、隣人の為に生きるなんていうことはとてもできない自分の姿です。
私はこのままでこの地上の人生を終わらせてしまうのでしょうか。
 求められていることは、信仰の初歩にとどまらず、成長し続け、常に神と人に喜ばれるような
ものにならなければならないこと、いまの混乱した世の中であるからこそ私たち信仰者は世の
光、地の塩として証を立てていかなければならないことであることはよく分かっています。そし
て、その為にこそ救いの信仰があることも承知しています。
 新しい年、恵みによってこの姿を、福音に相応しいもの、神を嗣業とするものに変えて頂きた
いと願っています。




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