「同労者」第51号(2004年1月)                  目次に戻る    表紙に戻る

論説
 ― 主のために働こう2004年 ―


「私たちは、・・私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・
キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。・・あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊によ
る喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたが
たは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。」(テサロニケT1:2〜7)


 NHKで放送しているプロジェクトXという番組があります。2003年12月9日には、襟裳岬の
植林事業を行った漁師たちのことが取り上げられていました。
――かつては森林に覆われていた襟裳岬でしたが、人間が開拓しようとして木を切り、土を掘
り起こしました。そしてその後放置したために、海岸沙漠になってしまっていました。土砂が海
に流れ込み、海がだめになり昆布すらもよいものが生えなくなってしまっていました。♪襟裳の
春はなにもない春です・・という歌の通りに。
 そこでもう一度木を植えようと立ち上がった漁師の青年達がいました。日高地震があった
為、視察にきた国会議員に、地震のことよりもこの荒れ地が問題だと訴えたら、その議員が働
きかけて、農林省の予算をつけ、技官を派遣して植林の指導をしてくれました。しかし、牧草の
種を蒔き、それが飛ばされないようにかぶせた「よしず」はたちまち風に吹き飛ばされ、植林の
土台となる草を生やすことが出来ませんでした。リーダーだった人物が海岸に打ち上げられて
いる海藻に思い当たりました。ゴタとよばれるその海藻のくずを敷き詰めてみるとそれは風に
飛ばされませんでした。それによって草を生やすことができました。そのゴタを荒れ地全部に敷
き詰めて草をはやすのに20年かかったというのです。さらに黒松を植林したら全部枯れてしま
いました。地層を調べたら悪い水の入ってくる地層がありました。そこで排水溝を掘りました。
だいぶ前のことですからみな人手によって行われました。
 努力が報われて、森林が甦り、海も甦りました。彼らは営々と努力しましたが、木が植えられ
るように草を生やすの20年、木を育てるのに20年、実に40年かけて森林が復元したのでし
た。森林が復元すると海もまた青い豊かな海に戻りました。彼らは40年目に感謝の時をもち、
歌いました。♪襟裳の春は世界一の春です・・と。――
 番組を見ていて考えさせられたことは、この漁師たちの働きには、単に労すればよいのでは
なく、解決しなければならない技術的な課題があったということでした。植林するには、木が生
えることのできる草地を作らなければなりませんでしたが、吹きすさぶ海風に、草の種を蒔いて
も飛ばされてしまうこと、植えた松が枯れてしまうこと、原因をつきとめ対策を考えだす、そのひ
とつひとつに年単位の時間がかかっているわけですが、挫折せずに追求し、その見つけた対
策を営々と実行して、事業を最後までやり通したわけです
 この話は、福音の事業に通じることを感じます。私たちを取り巻く、福音の働き場は、テレビ
でその姿を見せられた襟裳岬の荒れ地を連想させるものがあります。別のテレビ番組で、日
本人は敗戦時に民主主義を受け入れたがキリスト教は受け入れなかったと解説している人が
いました。日本キリスト教史を編纂する人々はこう解説します。フランシスコ・ザビエル他の宣
教師たちが種子島にやってきたのは1546年でした。彼らによって宣教がなされましたが日本
人は彼らから武器に関する技術を受け入れましたがキリスト教は受け入れませんでした。二度
目の機会は1853年ペリーの浦賀来航からはじまる明治維新の時でした。そのとき日本人は
西洋の科学技術を中心とする文化を受け入れましたが、キリスト教は受け入れませんでした。
三度目は前述の1945年敗戦にはじまる戦後の一時でした。政治体制は変わりましたがキリ
スト教は根づきませんでした。
 福音の種は、吹きすさぶ風に吹き飛ばされているように見えます。襟裳岬の漁師たちが北海
道のことを心配したのではなく自分の住んでいる襟裳岬だけを心配したように、私たちは日本
全体を心配するのではなく、私たちの聖泉連合、私たちの教会、私たち自身の家庭を心配しま
しょう。風は私たちの教会にも家庭にも吹きすさび、砂が入り込んで来るでしょう。人々が教会
にやってきては去っていってしまいます。どうしたらよいのでしょうか。クリスチャンの家庭に生
まれた子供で教会からいなくなるものが数多くいる現実を目の当たりにせざるを得ません。
 福音のたねが教会にやってきた人々に根づくために、またクリスチャンの家庭に育った子供
たちに根づくには、闇雲な労働だけでなく、その根づかない原因をつきとめ、未然に対処する
技術が必要です。確かに福音の種のいのちが人の心に芽生え、その人々が成長するのは神
がしてくださることではありますが、神は私たちを通して働かれるのです。私たちの働きが見当
違いであったら、神は働くことがおできにならないのです。
 教会で救われた青年たちがよその土地に行ってしまわず、その教会と共に長く人生を送るこ
とが教会の風土となるようにしようではありませんか。クリスチャンホームを築くことが教会の
風土となるようにしようではありませんか。
 クリスチャンホームの子供たちも世の風に吹かれています。その内容はさまざまで一口でい
えるようなものではありませんでしょう。それだけに、親はうかうかしていられないのです。それ
を見分ける知恵と知識をどこで手に入れるのでしょうか。成功例も失敗例も学びの種です。こ
こに私たち信徒部会の働きがあります。
 迎えました2004年、互いに学びあい、福音のために働こうではありませんか。
世界一の聖泉連合を目指して。

 


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