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          「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪
           
          から救ってくださる方です。」(マタイ1:21) 
          4.3 信仰の主体は「意志」である
           
          
           新約の時代が幕開けし、福音が述べ伝えられて、救いが提供される時がやってきたとき、ま
           
          ず人々に求められたことは以下のみことばでした。 
          「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
           
          
          『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」(マルコ1:14〜15)
           
          
          「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをは
           
          っきりと主張したのです。」(使徒20:21) 
           この中にはっきり示されていることは、
           
          
             悔い改めなさい。
           
          
             福音(イエス)を信じなさい。
           
          
          という2点です。いずれも「命令」されています。命令は、実行を要求すべき事柄、すなわち行
           
          為の要求です。裏を返せば、"信じなさい"という内容は、ある"行いをしなさい"ということです。 
           これは「心の中における行為」であり、「霊的行為」です。意志を働かせて「信じる」という行為
           
          をするのです。 
           イエス・キリストの救いに与っていない人々は「罪人」であって、善を行うことができない、と考
           
          えられています。悔い改めて信じるということは、「善」であって、「罪人が悔い改めて、福音を 信じる」ということは、この「罪人は善を行うことができない」という命題と矛盾します。 
           しかし聖書は、罪人に対して悔い改めと福音を信じることを命令しており、私たちの経験も正
           
          にそれと一致しています。罪を犯した罪人であるから悔い改めるのであって、救われてから神 との和解の悔い改めをするのではありません。救われたならもう神と和解しているのです。 
           この矛盾に対する答えは聖霊のお働きにあります。罪人が悔い改めることができるように聖
           
          霊が助けて下さるのです。これを私たちは「先行恩寵」と呼んでいます。 
          「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なので
           
          す。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからで す。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来る と、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:7〜8) 
           救われた時の実際面を少し知っているとよいと思います。それは私たち日本人のほとんど
           
          は、罪の恐ろしさ、自分が如何に罪深いものであるかを知らず、助けを求めてイエス・キリスト を信じるということです。ですから罪とは何であるか、自分が罪人であったということを救われて から悟ることが多いのです。そしてあの罪、この罪とそれを知ったとき悔い改めるということが 起きてきます。その罪のひとつひとつを、きちんと悔い改めて離れることが大切です。 
           悔い改めは、事務的であることが必要です。神は聖書によってこう命じています。
           
          
          「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、す
           
          べての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネT1:9) 
          「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよ
           
          みがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認めら れ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9〜10) 
           事務的と言う意味は、「罪を言い表して信じなさい。」命じられているのですから、文字通りし
           
          かるべき人のもとに行って、罪を言い表し、イエスの十字架の贖いによって、罪を言い表すも のを神が救ってくださると信じることです。 
           もうひとつ大切なことは、「神を愛し隣人を愛する」と同じく、神に悔い改めると共に、もし誰か
           
          隣人に罪を犯しているならその人に対しても悔い改めることが必要だと言うことです。 
           盗んだものを謝罪して返すというようにそれぞれの罪の内容に応じて隣人に謝罪がなされな
           
          ければなりません。これを怠るために、霊的進歩が阻害されるのです。そのような人は、神を 信じてはいるけれども一向に、信仰の前進と楽しさを味わうことができない信者となっていきま す。 
           こっそり神に悔い改めの祈りを捧げることは容易ですが、牧師のもとに行って悔い改めること
           
          はなんと困難なことでしょう。罪を犯した相手の人に謝罪にゆくことは更に困難なことです。しか し、それが自分の犯した罪なのです。それを実行すると、罪が分かり、その罪のためにイエス・ キリストが十字架にかかられた意味が分かります。そして「わたしもあなたを罪に定めない。行 きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)といわれるイエスのことばの重 さを悟るのです。 
           この悔い改めて信じることが、イエスという門を通ることです。
           
          
          「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、
           
          牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9) 
          この門を通らずに、福音にあずかろうとする人々がいますが、そのような人々は、「見えるとこ
           
          ろは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」(テモテU3:5)と宣告されるのです。 
          (以下次号)
           
          
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