「同労者」第51号(2004年1月)                目次に戻る  表紙に戻る

わかふうふわかもん

 − 何事にも謙遜に生きること −

仙台聖泉キリスト教会  山田 行

「パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。彼らが集まって来た
とき、パウロはこう言った。・・あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊
は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの
監督にお立てになったのです。」(エペソ5:22)


 今年もここまで守られ、クリスマスを心からお祝いするときを与えられ、感謝で一杯です。
この一年も悲しくて涙した日々、うれしくて喜んだ日々いろいろなことがありました。どんな所に
たたされても、教会の方々はじめ多くの人たちを通して、神様が生きて働いて助け続けてくださ
ったことを思うのです。
 そして、この世にはない教会のありがたさを思うのです。今の仙台教会は光明牧師から嘉納
牧師に多くの責任や御用が受け継がれてきています。多くに携わってきた父もほとんど手を引
いて教会の牧会にもあまり具体的なことは言わなくなりつつあります。いよいよ私にしてみれば
兄が教会の責任を負うようになったわけです。もちろん牧師は神様からの任命からなる権威あ
る大切な方であると信じています。そしてその先生を信頼し、敬い、語られるメッセージを神の
導きと信じ従っていくものと思っています。けれども、主人ともよく話すのですが、主人にしてみ
れば、年下であり、私とすれば、生まれた時から仲良く、時にはけんかもした、よく知る兄なわ
けです。だから気をつけていないと、いつの間にか牧師と信徒の関係ではなく家族としての思
いが強くなり、本当に信頼してよいのか?とか、大丈夫なのか?などそこには、権威ある先生
に従うとかいうものが薄らぐのです。聖書の中にもイエス様は親族や故郷の人々に受け入れら
れなかった。という記事があります。これと同じに私の心が高ぶることがあってはいけないと示
されています。教会も若い牧師、婦人伝道師に移行されていく中、主人と同じ、年上の信者の
方々も戸惑うこともあるのかと思います。そんな中、教会がばらばらになるのではなく、気をつ
けてこの大切な時を乗り越えていかなくてはいけないと思いました。教会は、人が集まる仲良し
のサークルでもなく、神様が建てた清い体としての働きと、そこには、本当の救いがありつづけ
なければいけないところなので、へりくだって、従って行かなくてはいけないと思いました。




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