「同労者」第53号(2004年3月)              目次に戻る      表紙に戻る

信仰良書

神 へ の 道
  (42)

D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳

「持続」出来ないことへの恐れ
 ヘブル人への手紙6章17節から19節を見てみましょう。「そこで、神は約束の相続者たち
に、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。そ
れは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽る
ことができません。―― 前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強
い励ましを受けるためです。この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を
果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」
 さてこれらは信仰から落ちてしまうことや信仰を持続出来ないことを恐れている人々には貴
重な聖句です。持続させるのは神の御業なのです。羊を守るのは羊飼いの仕事です。羊飼い
を連れ戻すために出かけて行く羊の話などかつて誰が聞いたことがありましょうか。人々は自
分自身をそしてキリストをも保たねばならないという考えを持っていますがそれは間違った考え
です。人々を見守り、ご自身に信頼する者たちの世話をするのは羊飼いであられるお方の仕
事なのです。主はそのことを約束しておられるのです。こんな話を聞いたことがあります。ある
船長が臨終のときに言いました。「神に栄光あれ。錨は下ろされている」彼はキリストに信頼し
ていました。彼の錨は堅い岩を捉えていました。ある時一人のアイルランド人が言いました。
「彼は身震いしました。しかし岩であられる方は決して震えませんでした」私たちはしっかりした
土台の上に立ちたいと思います。
 テモテへの手紙第二1章12節でパウロは言っています。「私は、自分の信じて来た方をよく
知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができ
ると確信しているからです」それがパウロの確信でした。
 「反乱軍」の戦争の末期に、病院を巡回していた従軍牧師の一人がある死にかけている男
のところへやって来ました。彼がクリスチャンであることに気づいてどの教派に属しているのか
尋ねると、「パウロの教派です」という答えが返って来ました。牧師は彼に「それはメソジストと
いうことでしょうか」と尋ねました。メソジスト達はパウロが自分達に属すると主張するからで
す。「いいえ」彼は答えました。「長老派でしょうか」長老派の人達も強くそう主張します。が、「い
いえ」と答えが返って来ました。「それでは聖公会でしょうか」聖公会の教会員はこの「使徒の
頭」が自分達に属すると主張して論争するのです。「いいえ」しかし彼は聖公会員でもありませ
んでした。「それではあなたは何派(どんな確信)に属しているのですか」と尋ねると、彼の答え
は「私は主が私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださことができると確信していま
す」というものでした。それはとても壮大な確信でした。そしてその確信によって死に行く兵士は
最期のひと時に安息を得たのでした。
 信仰を持ち続けられないと恐れている人々にはユダ書の24節を開かせなさい。「あなたがた
を、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に
立たせることのできる方に」
 さらにイザヤ書41章10節をご覧なさい。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐ
な。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手
で、あなたを守る」
 そして13節を見なさい。「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れ
るな。わたしがあなたを助ける。』と言っているのだから」



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