「同労者」第55号(2004年5月)              目次に戻る      表紙に戻る

JSF&OB

− 与えられるむちと報酬 −

仙台聖泉キリスト教会  相澤 誠

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主は
その愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:
5〜6)


 4月10日(土)朝、この同労者の原稿をパソコンで打ちながら、何を書こうか?と迷っていた。
そこで、私が今、与えられている現状と、そこに至るまでの事を少し、書こうと思います。
 1996年7月、高校を中退。原因は、その当時TV、新聞などにもよく取り上げられていた「い
じめ」によるものでした。その年の8月24日(土)にその当時、祖母の家に下宿をしている時に
嘉納先生を通して救われました。
 その後、翌年の3月から石井和幸兄との共同生活、その間、いくつかのアルバイト(コンビ
ニ、テレフォンアポインター、商品仕分け、交通誘導員etc・・・)を経て現在に至り、今は、一般
の人から見ればおそらく、嫌がられる?(一歩距離を置きたくなるような)仕事をしている。いわ
ゆる、「臭い」仕事です。
 冒頭に書いた聖言は、今年与えられたもので続きがあり、「訓練と思って耐え忍びなさい。神
はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょう
か。」(同7節)です。
 今まで、アルバイトをしていた時には、自分の嫌な事また、多くのアルバイトをして、ある程度
の結果が自分の中に見えてくるとすぐ辞めてしまい次の仕事を見つけるのに面倒くさがり、非
常に時間が掛かってしまうということの繰り返しでした。
 その原因は、「自分で結果を出してしまうのが早すぎる」、「どうしてこんなつらいことばかりし
か・・・」という二つの事が挙げられるのだと思う。
 最近、集会の中で嘉納先生が語られているメッセージの中で、「まず、結果を求めるのでは
なく、今置かれている現状で神様を信じ、行動を続けていくことにより結果は見えてくる。」とい
うことが語られていました。
 私は、「神様はどうせ、厳しいこと(私にとって嫌と思うこと)しか与えない方なんだ。」としか考
えていませんでした。しかし、嘉納先生のメッセージを聞いているうちに、厳しい部分(懲らしめ
る部分、むちを持つ部分)だけではなく、そこには、私自身がその与えられた部分に対して結果
を出しただけのもの「対価」を与えてくださる方であるということ、今までも与えてくださっていた
方である、ということが示されました。
 それは、礼拝など諸集会で語られているメッセージが、私自身といかに密接に繋がってい
て、今までいかに自分が、メッセージを聞き逃していたか、そして、神様から与えられる結果に
対しての報酬も逃していたかということ感じました。
 これからも神様から様々な厳しい部分、むちの加えられる部分があると思います。しかし、そ
の中で語られているメッセージを少しでも多く読み取り、神様からの結果に対しての報酬を受
け、また受けるだけではなく、与える側になれればと願っています。




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