ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。 質問の送付先は巻末にあります。 先月の質問の回答例(作成者:野澤) R.A.トーレイの「聖書の教え」に整理されている項目を引用して、イエス・キリストの品性につ いての説明を続けます。 <イエス・キリストの品性> 3.2 イエス・キリストの愛は人々にどのように顕わされたのか(つづき) (26)教会に対するイエス・キリストの愛は、イエスが父なる神のみもとを離れて、教会と合うため に世に来られ、二つのものを一つの体にしようとされたことによって顕されている。 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大 です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:31〜32) これは実に大きい神秘です。 (27)いましめを守る人々に対するイエス・キリストの愛は、彼らにご自身を顕し、かつ彼らと住 処(すみか)を共にすることによって顕されている。 「『わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたし の父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。』イスカリオテでないユダ がイエスに言った。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそう となさらないのは、どういうわけですか。』イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する 人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその 人のところに来て、その人とともに住みます。』」(ヨハネ14:21〜23) (28)弟子たちに対するイエス・キリストの愛は、私たちのために住処を備えにゆかれたことによ って顕されている。 「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいた でしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2) (29)弟子たちに対するイエス・キリストの愛は、私たちが再び別れることのないように、ご自身 が再臨されて私たちを受け入れてくださることによって顕されている。 「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎え ます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:3) (比較)「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下っ て来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている 私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。こ のようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(テサロニケT4:16〜17) <註1> イエス・キリストは自ら「また来て」と言われました。従って、もはやイエスは使者を送 られるのではありません。 <註2> 主は「あなたがたを、わたしのところに迎えよう。」と仰せられたのですが、それは単 に天上に迎えると言われたのではありません。彼は私たちをお慕いになられて、ご自身の霊 に、ご自身の胸に、私たちを押し抱くように愛されたのでした。ここに「わたしのところに」と主が 言われたのは、実にそうした意味における主の私たちに対する愛慕の情を表現されたお言葉 です。 私たちは彼を慕うというけれども、実際には彼が私たちを慕われるほどの熱情をもって慕って はいないのです。天さえも、私たちと一緒でないならば彼にとって淋しい場所なのです。同様に この地上における私たちも、主がおられなかったなら淋しい者なのです。 (30)教会に対するイエス・キリストの愛は、過去においては教会に自らをお与えになったことに よって顕され、現在はみことばによる水の洗いを通して教会を潔め、聖なるものとなされること によって顕され、未来においては「しみも、しわも、そのたぐいのものが一切なく、清くて傷のな い栄光の教会を、ご自身のもとに迎えようとしておられることによって顕されている。 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、 自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会を きよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つな い、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:25〜 27) 今月の質問 来月もイエス・キリストの品性について説明を継続します。 説明について、疑問点がありましたらお知らせ下さい。また、これらを離れた質問も歓迎致しま す。
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