「同労者」第55号(2004年5月)              目次に戻る      表紙に戻る

信仰良書

神 へ の 道
  (44)

D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳

二種類の懐疑論者
 キリストを信じない人には二種類あります。一つは純粋に頑固な人達、そしてもう一つは議論
だけを好む人達です。
私はかつてこの後者の人達は、私の肉体のとげだと思っていました。しかし今では彼らが私を
刺すことはありません。私はこれからもしばしばこのような人達に会うでしょう。この種類の
人々はかつてキリストの言葉尻を捕えて陥れるためにまわりをうろついていました。彼らは議
論をするために私たちの集会に参加します。そのような人達全てに私は、テモテに対する次の
ようなパウロの忠告をお奨めします。「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとで
あることは、あなたが知っているとおりです」(テモテU2:23)。なんと「無知な思弁」と呼ばれてい
るではありませんか!
多くの若い入信者は驚くべき間違いをします。彼らは自分が聖書全てを弁護するべきだと考え
るのです。私は信仰を持ったとき聖書のほんの僅かしか知りませんでしたが、全ての人に対し
て聖書をはじめから終わりまで弁護しなければならないと思っていました。けれどもボストンの
異教徒が私を捕まえて、私の全ての議論を一度に打ち負かし、私を落胆させました。しかし私
は今ではそれを乗り越えています。神の言葉の中には私がわからないと公言しなければなら
ないことがたくさんあります。そのようなことをどう処理するのかと問われたなら私は「何もしま
せん」と答えます。「聞かれたらどう説明するのか」と問われたなら「何も説明しません」と答えま
す。さらに「それではあなたはそのような聖書の箇所をどう扱うのか」と問うなら「勿論信じます」
と答えます。そして相手が「私は理解出来ないことは信じない」と言うなら、単純にこう答えます
「私は信じます」と。
 五年前には――それまでも溢れるような光を受けていながら――不明瞭で不可解なことが
多くありましたが、私はその光を受けながらどのようなときもそして永遠に、神について何か新
しいことを見出し続けていくのだろうと思っています。私は聖書の中の論争のある箇所は議論
しないことにしています。かつてある神学者が、魚を食べたい人はまず骨を取り除くことから始
める、と言いました。私はわからないことがらは光が当てられるまでそのままにしておきます。
わからないことを説明する義務は私にはありません。「隠されていることは、私たちの神、主の
ものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり」(申命記
29:29)そして私は霊的な力を得るために、それらを取り、食し、糧とするのです。
(つづく)




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