「同労者」第55号(2004年5月)                目次に戻る  表紙に戻る

わかふうふわかもん

 − 主の下さるご褒美 −

仙台聖泉キリスト教会  山田 行

3月、4月東北の待ちに待った暖かな春がやってきました。
日差しがきらきらまぶしく、小さな花々が咲き始めそしていよいよ桜が満開になるのです。
しかし、私の現実は変わらずに目の前のしなくてはいけないことをひたすらこなす日々です。特
にこの時期は、私の勤めている仕事場の一番忙しい時期に入ります。
それこそ、しなくてはいけないことのメモを次々に書いていないと、すぐにパニックになるので・・
というよりどんどん忘れて皆の足を引っ張るので、必死に着いて行くという感じです。
こんな時通勤の行き帰りで、楽しそうに話をしている人やお花見の帰りとか、旅行へ行くような
格好の人、仲よさそうなカップルがやけに気になり、「いいな〜」と必ず思っている自分がありま
した。
そして、このように自分を慰めるのです。「この忙しいときをこんなにがんばっているのだから、
この山を越えたら自分にご褒美をしよう、何がいいかな?」と、この年になって誰も「よくやって
いるね〜」
と、たいしたこともしていない、私以上にもっともっとがんばっている人が沢山いる中で言われ
るはずも無いことは良くわかっています。しかし、だれかに認めてもらいたいとか、わかってほ
しいとか、自分の好きなことをするとか、買いたいものを買ったりするぐらいは許されるし当たり
前だと言う考えにフッと思う自分があるのです。
しかし、いつまでたっても自分の利益や褒美ばかり、それがなければ、何一つがんばれなくな
るのか?何のために毎日仕事をしているのか?家族のため?自分が楽に生活するため?献
金を少しでも多くおささげするため?
経済活動もそうですし、同じように信仰生活もこんなに、まじめに教会生活と、奉仕をしている
のだから、きっと神様は私にご褒美を下さるはず、良いことがないと信仰って何だろう?と思っ
たり、逆に辛いこと、苦しい出来事があるとすぐに「もうやってられない」と思ったりするのです。
この間のメッセージの中で「私たちの信じているものは御利益宗教ではないこと、イエス・キリ
ストの大きな血潮の代価で買い戻された私たちにそれぞれにふさわしい任命があたえられるこ
とそれを受け入れてその責任を果たすことをしますか?」と言う問いかけがありました。「もしそ
れを受け入れて働くならば、神がそばにいつもいてくださると言う約束が与えられるのです」
私はそのとき、私の働きは、神がいつもそばにいて私以上に自分を知ってくださり、私の思い
以上の導きで助け続けてくださると、その幸い以上のものは無いこと示されました。
目に見えるものに心を奪われるのではなく、目には見えなくても神が与えてくださる平安と幸い
の醍醐味をそろそろ分かるものにならなくてはと思いました。
それが、なによりの私の人生のご褒美(恵み)であることに感謝します。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的で
あり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリントU4:18)




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