「同労者」第69号(2005年7月)                            目次に戻る 

三浦綾子を読む
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− 裁きの家 −
東京ミレニアム・チャーチ 牧師  長谷川 与志充
 
 今回は「裁きの家」という作品をご紹介させていただきます。この作品は三浦作品の中では
極めてマイナーな本なのですが、私としては三浦文学の隠れた傑作として高い評価をしている
本でもあります。
 この本は基本的に人間の罪深さを描いたいわゆる「ドロドロ系」と言われる作品と言えます
が、その元祖である「氷点」との違いはその家庭環境にあろうかと思います。「氷点」が医者と
いうエリートの家庭を描いているのに対して、「裁きの家」はより一般的な家庭をその物語の中
心に据えています。そういうわけで、共に「罪」というものを明らかにしながらも、「裁きの家」の
方がより具体的で、わかりやすく、説得力に富んだ形で示すことに成功しているのです。おそら
く読者は自らの家庭でも似たようなことがしばしば起こっていることを覚えさせられずにはいら
れないでしょう。
 この「裁きの家」というタイトルには、大きく分けて2つの意味が込められているように思いま
す。まず1つは、現代の家庭はお互いがお互いを裁き合っている「裁きの家」だということで
す。作品の中で親子、兄弟、夫婦、嫁姑がそれぞれ裁き合っており、そこには赦しも安息あり
ません。
 そして第2は、そのようにお互いを裁き合っている家庭は、神に裁かれているまさに「裁きの
家」だということです。聖書は「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の
御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:18)と言っていますが、この神のひと
り子の御名を信じない家庭はすでに神様からさばかれているのです。このさばかれている結果
こそ、お互いに裁き合い、傷つけ合い、全く安息のない状況に他なりません。この作品には神
様のことがほとんど出てきませんが、このような作品が明確に語っていることは、神不在という
のがどれほどむなしく、悲しむべき悲惨な状態であるかということなのです。
 この書には重要で示唆に富んだ言葉が数多く登場しますが、次の2つの言葉は特に覚えな
ければならないものでしょう。
 まずは、「自己主張の果ては死」という言葉です。これはこの書の主題的な言葉と言えます
が、聖書の「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)を日本人によりわかりやすく三浦綾子氏が翻訳し
た言葉のように思います。この書を読みながら、私達は自己主張をする結果は、自らをもまた
他人をも死に追いやる結果となることを痛感させられずにはおられないでしょう。
 もう1つは、「対話なんかないよ。あるのはモノローグだけさ。」という言葉です。親は子供に一
方的に説教し、断罪します。そこには対話はなく、モノローグだけがあります。私達はエデンの
園での神と人との会話から、罪を犯した人を救い出し、真に生かす対話とは何かを学ばなけれ
ばなりません。「あなたは、どこにいるのか。」

 
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