「同労者」第71号(2005年9月)                            目次に戻る 

論  説

 − 漸進的聖化 

 前号で「建設」について論じましたが、これは言い換えれば、「漸進的聖化」そのものを目指し
ていることにほかなりません。
 福音派の人々の、共有している大切な問題に、救いの瞬時的な経験、つまり「私はいつ、ど
こで、どのようにしたときに救われました。」といえる経験があります。それは神が実際に私た
ち「罪人」の罪を赦し、新生の命を与えてくださったその瞬間です。私たちはそれを経験し、そ
の素晴らしさに驚きます。そして、教会で教えられ、聖書を読んでその意味、そのために支払
われた贖いの代価がいかに大きいものであったか、自らはいかに深い罪人であったかを知り
ます。きよめ派の人々には、さらに「潔められる経験」をする人が出てきます。それは、心の中
の神に不服従である部分が全く取り除かれ、聖霊に満たされる経験です。しかし全員がその
経験をしているのではないことは明らかです。またきよめ派でない人々にも、そのように整理し
て受け止めていないだけで、実際には潔めの経験をしている人もいることでしょう。
 まともなキリスト教を信じる人々の間では、神の前に立つときは聖なるものとされていなけれ
ばならないことが受け入れています。救われて新生の命が与えられることは、聖くされて神の
前に立つその第一歩を踏み出したことを意味します。クリスチャンの生涯はその神の前に立つ
ことを目指して歩み続ける生涯です。その心の営みは、自分の内にこのような醜いものがあっ
たと気づかされ、それが改められていくこと、人を愛することの必要な場面に立たされて、愛す
ることができるように変えられていくことにあります。漸進的聖化とは、この神の国に相応しいも
のに私たちが変えられていくことを指します。ですからこれはすべてのクリスチャンの共通の経
験であって、死の瞬間まで続くものであり、さらにある人々は死んでから後も続くものであると
言っています。 
 問題はどこにあるかというと、この救われる経験、潔められる経験の素晴らしさ故に、福音経
験はみなそのように与えられるもの、祈り願ったらこういうことを神が行ってくださったということ
だけが信仰であるように思い、日常生活のひとつひとつが、信仰に結びつかないもののように
思われることです。つまり配偶者を得、子供を育てること、衣食住に関すること、仕事、遊びや
趣味、・・といったことを信仰の大切な要素として考えない点です。
 建設できるのは、これらの普段の生活の中にある事柄であって、そこに私たちが漸進的聖
化を与えられる場があります。教会の中で奉仕の場を与えられることも、職業も、家庭もすべ
てがこの観点で進められる必要があります。

「愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、
聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イ
エス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(ユダ20〜21)

  

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