「同労者」第72号(2005年10月)                           目次に戻る

読者の広場(3)

<お便り>

中京聖泉教会 山田 義

− エストニヤを歩く(1) −

 今年の7月末の10日あまり滞在したエストニアの話をします。1年前にエスペラント語で知り
合ったエストニアの女性リディアさんが私たち夫妻を招いてくれました。行く前には、メールで家
族の情報から飛行機の時間まで打ち合わせました。私の申し入れは贅沢なホテルに泊まった
り、名所旧跡を回ったりおいしいものを食べたいのではなくその小さな町で日常に行っているス
ーパーマーケットを見たり、家の近くを散歩したり、家の人とゆっくり話したいということでした。
町でコンサートがあったら切符を用意してほしい、外国でピアノの調律をしてみたいから調律の
必要な家を見つけておいてほしい、日曜日は是非町の教会で礼拝に出席したいことなどをお
願いしておきました。町での記念コンサート、リディアさんの孫が通っている中学校でエストニア
というグランドピアノを調律し、校内を案内してもらい、町にある古い石造りの教会で礼拝に出
ることができました。
 話の前にまず詩編23編を読みます。この23編はよく知られた詩編です。これを暗唱してい
る人もいるほどです。実は、今まで私にとってこの有名な詩編は心に響かなかったのですが、
今回の祝された旅を終わって幸せを感じているとき、この詩編の「緑の牧場に」ということばに
目がとまりました。今の私の思いに通じるものがあると思うようになったのです。
 新改訳聖書では、主という字は太字で書いてあり、ほかの書物ではあり得ない表記の工夫
がされています。よほど特別の文字であることが分かります。そうです。出エジプト記に出てくる
神の名前です。
 この詩編の作者はダビデであり、ダビデは子どものころは羊飼いをしていました。ですから私
が書くなら、「主は私の調律師。音色に不足はありません。」とでも書いたでしょう。
 「緑の牧場」というと、丘の広いところに木の柵があって、鳥がとまっている、遠くに山並みが
見え草原に羊が放たれている、というようなのどかな風景を想像します。でもおそらくパレスチ
ナでは、柵で猛獣から守られている牧場ではなく、荒れ地の中でやっと行き当たった草はらだ
った想像できます。羊飼いにとってあの地で十分に羊に食べさせる草原を見つけるのはたい
へんだったと思います。青草の原で喜ぶ羊を見て、知っていたダビデ。静かな水のあるところ
へ羊を連れて行ったときの羊飼いの安堵感が読み取れます。
 「主は私のたましいを生き返らせ」死んでいたのがよみがえったという話ではなく、ほらよく言
うでしょう、真夏に日陰に入ったときとか、冷たい水にありついたとき、「ああたましいが生き返
った」と言います。
 「私を義の道に導かれます」義というのは私の名前です、タダシと読みます。正しいという意
味です。私を正しい道に導いてくださる、という意味です。
 「私の敵の前で…食事をととのえ」という節の「敵の前」というのはどういう意味なのか私には
分かりません。何か戦争とかスポーツ競技の敵というより、私をいつもじゃまにしたりいじめを
してくる者のことではないでしょうか。いくら何でも戦争とか競技のさなかに食事は楽しめま 
せん。
 食事を整えということばで思い出すのは、あの白夜の9時過ぎに庭のカマドの前で食卓に着
いたことです。庭の青草に置いてあるテーブルにまずはテーブルクロスをかけて私たちを歓迎
してくれました。手作りのテーブルもクロスをかければ宴会場です。詩編23編には、油をそそ
いでくれると書いてあります。油を注いで戴冠式をするという意味ではなくここでは、喜びで満た
してくれるという意味だと注釈書に書いてあります。豊かに用意されたテーブルに座ることがで
きました。
 私のいのちの日の限り、恵みといつくしみが追って来るでしょう。この地上での旅が終わって
天に帰ったあとも、いつまでも天の国において主の家に住み続ける、希望を持つことができ
る、というダビデの詩です。地上でのあれこれの問題があり、社会には経済、平和、政治の問
題があり、人生にはそれ結婚だ、育児だ、老後だと気がかりなことがいっぱいです。でも、主を
信じる者にはこの希望が与えられている。自分の意志で、努力で、しがみついてでも、「主の家
に住まいましょう」という決意ではなく、いつくしみと恵みのゆえに、「私は主の家に留まることに
なるはずです」という見通しのある希望のことでしょう。
 エストニアという国はバルト三国の一つ。 フィンランドのヘルシンキから海をプロペラ機で30
分南に首都のタリンがあります。この国はポーランドの北東にあたります。



 シマ子とともに10日あまりその国に留まりました。そのお宅では、いまでは息子や娘が独立
し、二階が空いているから全部お使いなさい、というメールで知らせがありました。今回の旅行
の主目的は、近くの国リトアニアで開かれるエスペラント大会出席です。 その前だから2、3日
泊めてもらいたいと返事したのですが、「私の国エストニアを見るには3日では足りません、30
日はとどまりなさい」というメールが来ます。私は30日もいいと思ったのですが妻はいくら何で
も30日は長すぎる…。妻と相談の上メールを打ち返しました。「私たちは仕事の日程を工夫し
て10日ほどを確保します。7月12日に出発しますのでよろしく」ということにしました。
 空港では花束で迎えられ、息子さんのヴォルヴォで100キロメートル森の中を走りました。ハ
ープサルの家に着き、庭は青草、道の両側もきれいに刈った草はらでした。翌日の夜9時ごろ
でした。まだ明るい外庭で、暖炉のような石を積んだカマドには煙突があります。物を焼いて食
べるわけです。焼くまえにその家の主人ボリスが肉を切ります。
 図らずもひとりの人の招きによって今回のすばらしい旅で10日あまりのいろいろな経験をす
ることができました。1年前まではエストニアという国の名前さえ意識になかったのです。バルト
三国というのを学校で習った程度です。エストニアについてはその歴史、地理、政治、宗教、芸
術、産業など何一つ知りませんでした。そもそもは、1年前のペキンでの世界エスペラント大会
でした。そこで晩餐会に出たときたまたま同席したのがふたりのエストニア人でした。そこで話
したことは来年はリトアニアで開かれる大会に夫婦で行くつもりだということくらいでした。その
後そのうちの一人とリディアさんとメールで文通が始まり、家族の様子も知らせてきましたか
ら、シマ子が数年前に出版したフランス人との文通集を送ると、1日で読んでしまい感動してく
れたのを知りシマ子も親しさを覚え自らメールを出すようになったのです。エスペラントや日本
語で書いたエストニアの観光や歴史の本をわざわざ送ってくるようになりました。
 特にシマ子は、招待されるということを承知するまでに時間がかかりました。そういう経験が
ないからでしょう。観光のための交通費やホテル代などの費用は私たちが持ちたいと書いた
のですが、招待だから何も要らない、何も持ってこなくていいという返事でした。しかし、妻はそ
のことをどうしても承知してもらわねば行くことができないと言うのです。結局はリディアさんが
それならそういう提案を受けましょうということになりました。ハープサルの家に着くとすぐこれ
だけは、ということで用意してきたものを私が渡しました。快く受け取ってくれましたた。その費
用で間に合ったのか不足だったのかは分かりません。
 ここで、リディアさんの夫ボリスさんについて話しましょう。彼は太ったユダヤ人、白い髪やひ
げが目立つ目の優しい人です。メールで奥さんからは、ボリスはユダヤ人で、結婚するときに
は親に反対された、と聞いていました。 私より少し年上で、足が不自由、外出をしない、家でT
Vを見ており、夜中は日本からの相撲放送も見るそうです。バルトという名前の力士はこの近く
に住んでいたんだとか話していました。奥さんに言わせるとボリスは頭が良く人望があり、とき
どき大声で電話で知り合いの相談事に乗っているとのことでした。
 彼はその暖炉のまえに座って、肉をナイフで切る、何の肉か、彼はエストニア語、ロシア語、
イディッシュ語、ヘブル語はできるが、エスペラントも英語も話さないというので、手振りで鳥
か、と問うと、鼻を押さえてブー、ブーという返事。よく見ると豚肉だ。ユダヤ人が豚を食べる?
 この人は規律(律法)を守る堅苦しいユダヤ人ではないことが分かりました。
 イディッシュ語とはディアスポラのユダ人が使う言葉です、イディッシュ語かヘブライ語で詩編
の23編を朗読してもらえませんか、私が録画するからと提案すると、通訳を介して言うには、
「私は目が弱くなっているから読むことができない」という返事でした。ところが夕方だったかあ
の庭で彼が目を近づけて新聞を読んでいるのを私は目撃しているのですが…。
 でも奥さんと二人でなにやら言い合っているうちに、ボリスさんは、「部屋からあれを持って来
てほしい」というらしい。奥さんが持ってきた物はあの小さな帽子、ユダヤ人が祈りの時に使う
キッパという帽子。かぶる前に奥さんが櫛できれいに主人の髪を整え服のボタンをきちんとか
けてあげます。威儀を正して手を閉じて始めました。撮影が終わったあと「それは何でしたか」
と聞いてみると、「これは昔からユダヤ人に伝わる食事の前の祈りだ」という。彼はもちろんキ
リスト教の教会には行かないが、首都のタリンまで行けば、ユダヤ人の教会すなわちシナゴー
グがあるがそれにもこのお父さんは行かないのだと奥さんは言います。アメリカには叔母がイ
スラエルには弟がいるそうで時々電話で話すのだそうです。
 私は記念にエストニア語の聖書を買って帰りたいと言ってありましたが、帰りがけにボリスさ
んはエストニア語の新約聖書を渡してくれました。ユダヤ人からせっかくの新約聖書を取り上
げてしまい心が引けましたがトランクに大事に詰めて帰ってきました。
 ここで聖書について話しておきます。私たちにあてがわれた二階の3室の寝室の本棚には聖
書が並べてありました。私が読むのに必要だろうとエスペラント訳も立ててあり一つはいつも私
も家で使っているのと同じもの、もう一つは新約の初期のエスペラント訳で貴重本です。エスト
ニア語の聖書がなぜか立派な箱入りの大判が立っています。手頃な判もあり、比較的新しく家
族の歴史記入欄には結婚記念日や子どもや孫たちの誕生日が記されています。そんなに熱
心に読んである形跡はありません。ほかの日に、そのことをリディアさんに話すと、娘さんも家
族の記録を聖書の記録ページに書き込んでいるそうです。私に見せるために二階に並べてお
いたのだそうです。のりや紙で修理し直した古い聖書もありました。リンドラ家の前の代の人が
使っていたもののようです。ソビエト時代にも捨てたり手放したりせずに持ちこたえたのでしょ
う。
 首都タリンへ行ったとき聖書専門店に行きたいというと、大きな近代建築の建物に行きまし
た。張ってあるポスターなどからみて福音派の管理で本の販売だけではなく集会などもできる
クリスチャンセンターという感じでした。雨の中せっかくでしたが夏休みで扉は開きませんでし
た。
(つづく)
 



目次に戻る   表紙に戻る